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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

反転する「介護体験」

2020/08/09
介護三昧 0
20200809 

おばあちゃんの介護をしてゐると、介護する側の私の気持ちと、介護される側のおばあちゃんの気持ちとの兼ね合ひを考へることがあります。そのとき、4年前の正月に見たテレビドラマを思ひ出す。「マツコロイド」といふ介護ロボットが登場したのです。

トラックで運搬中に紐が緩んだのか、ロボットが落ちてしまつて、トンネルの中にぽつねんと鎮座してゐる。そこへ、おばあさんと若者の2人連れが通りかかる。

「あんたは何者なのよ?」
と聞くと、
「私は介護ロボット」
と答へる。

介護ロボットが自分で動けず、ぢつと座つてゐるのは合点がいかない。更に尋ねると、
「私は、介護してもらふのが専門の介護ロボットです」
と言ふのです。

介護ロボットと言へば、ふつうに考えて、介護の仕事をするためのロボットでせう。ところが、そのロボットは「介護してもらふために作られたロボットだ」と言ふのですから、これはあまりにもおかしい。

そんなロボットが何の役に立つのか。ただでさへ要介護の人が増えて困つてゐるといふのに、そんなロボットを誰が一体使ひたいのか。使ひ道など、とてもありさうにない。

さう思ふ一方、そのロボットがマツコ・デラックスさんによく似てゐるために(名前が「マツコロイド」)、妙に無視できない気持ちになつたのです。ただ、私はドラマのその場面だけを見たので、ドラマの中でマツコロイドがどんなふうに役立つたのか知らない。

それで、私なりに考へた。

介護の問題を考へると、介護する側の大変さに関心が多く集まるのが普通でせう。しかし、介護される側の人の気持はどんなものか。それを考へると、介護ロボットの可愛げのない態度が妙にリアルに感じられるのです。

ロボットなら、介護する人がどんなに大変だろうが、気にもならないでせう。

「私は介護されるために作られたロボットだから、介護してもらつて当然」
と思つても不思議ではない。

しかし、人間であれば、さうはいかない。

「介護してもらつて当然」
とは、普通の人の気持ちとしては思へないでせう。

思へないが、現実には体が動かないので、介護してもらふより他にない。このやうな相反する2つの要素があるので、人間の心は苦しむのです。ロボットならざる人間の要介護者が、ロボットのやうに「私は介護してもらって当然」と思へるやうになれば、どれほど気が楽か。

そのやうにならうとすれば、

① 要介護者が介護ロボットのやうな精神構造になる
② 介護者が「私は介護ができてとても有り難い」と心底思ひながら介護に当たる

の2つの方法が考へられます。

しかし、①は難しさうです。よほどの鉄面皮か、あるいはかなり進んだ認知症なら、ある程度可能かもしれない。

それはそれとして、私は②の可能性を考へてみたい。

介護者が②のやうな心境になれれば、要介護者は「介護してもらつて当然」とまでは思へなくても、ある程度は気が楽かもしれない。しかしその心境はいかにして可能か。

ふつうに考へれば、介護する側は助けを与へ、介護される側は受ける。「有り難い」と言ふとすれば、それは介護される側のはず。与へる側が「有り難い」と心底思へるのは、どういふ場合でせうか。

介護する側は、自分が与へると思つてゐるのですが、よく考へると、実は自分が受ける側であつた。それに気づき、心底得心がいけば、「介護できて、有り難い」といふことになるかもしれません。

介護者が介護しながら、要介護者から何を受けるのか。必ずしも要介護者から受けなくてもいい。ともかく、介護しながら何らかのプラスを受けることができるなら、それは「有り難い」ことになり得るでせう。

おばあちゃんの介護をしながら、その「何らかのプラス」を感じることが間々あります。たいていは疲れるし、先のことを考へれば憂鬱にもなる。しかしときどき、「介護させてもらつてゐる」といふ気分になることがあるのです。「かういふ体験が私には必要だ」と思はされる。さういふ心境になるのです。

おばあちゃんは私の「介護体験」に反転をもたらす、ひとつの媒介に過ぎない、とも思へる。



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