こんな芸当、私にはとてもできない
日に日に足の筋肉が弱り、可動性が衰える。距離にすれば10m程度の寝室から食堂まで行くにも、青息吐息。
やつとの思ひで食堂の椅子に腰をおろすと、まづジュースを飲む。朝ならその次にバナナを1本。これは食べやすいし美味しいので、おばあちゃんのお気に入りです。
後は、ゼリーを食べることもあるし、小さなおにぎりをほお張ることもある。時には桜餅を食べて喜ぶこともある。
朝、これくらゐのコースを食べるのは体調の良いときで、具合が悪いときにはジュースだけ飲んでまた寝室に戻ることもある。食が細つてゐるから、確実に体は小さくなつてきてゐる。
週3日のデイケアに行く以外の日は、寝室のベッドで横になつてゐる。赤ん坊のやうだなと思ふほど、よく寝る。
夜中には大抵2回か3回、トイレに起きる。ベッドのすぐ横に簡易トイレを置いてゐるものの、自力では行けない。ベッドの上でごそごそするから、その音で私の目が覚めて、手を貸してトイレを済ませる。
我ながら眠りが浅いのだなと思ふ。隣の部屋に寝てゐて、ちょつとした音ですぐに目が覚める。お蔭で昼間に寝不足を補ふやうになつて、夜と昼が逆転して体内時計が狂つた感じになる。
デイケアに行かない日、買い物などで2,3時間家を空けて帰ってみると、ベッドから降りて、床に寝転がつてゐることが時々ある。臭いなあと思つてよく見ると、紙パンツが床に転がつてゐて、中にうんちが溜まつてゐる。本人は鼻も目もよく利かないから、事態を理解してゐない。
今年の2月から、こんな生活が半年ほど続いてゐます。
「時々は息抜きをしたはうがいいよ」
と娘に言はれるのですが、体内時計が狂つてゐると、出かけるのも億劫で、ついベッドにもぐり込むことが多い。
それでも娘のアドバイスを容れて、この前初めて隣町の水族館まで遠出してみました。子どもたちが小さい頃には何度も一緒に通つたことのある水族館。10年ぶりくらゐだつたでせうか、行つてみると、これは本当によかつた。
クラゲたち、ペンギン、アザラシ、トカゲ、カクレクマノミ…
明日のことを思ひ患ふでもなく、拘りがなく、自由で…
私は昔のことをよく忘れるのです。40代の母、70代の母、80代になつたばかりの母。もちろんある程度は覚えてゐますが、今目の前の母が足も腕も細くなつて座つてゐれば、その姿が過去の元気だつた姿を上書きする。だから今の姿をそれほど不憫とも思はない。
「あんなにも頼もしかつたのに…」
「私の世話をしてくれたのに、今は子どものやうになつて…」
「小奇麗だつた人が、今はだらしなくうんちを漏らして…」
そんなふうには思はないのです。
「これがおばあちゃんの今の姿だ」
と思ふ。
むしろ、我が家で一番幸せなのはおばあちゃんだなと思ふ。日に何度も繰り返し言ふのです。
「あんたのお蔭で、こんな幸せなおばあちゃんはゐないと思ふよ」
「有り難いね」
「〇子(おばあちゃんの名)は幸せです」
さう言ひながら、手を合はせる。こんな芸当、私にはとてもできない。若くて健康だつた頃より、今のはうがもつと幸せなのではないか。
今さら元気になつてほしいとは思はない。そんな言ひ方、無情と思はれるかもしれない。ただ、老母と過ごす最後の時間がかつてなく濃厚に感じられるのです。
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