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「当たり前」のことを説く当たり前の人

kitasendo
20200727 

「とうていあたりまえとは思えない」ことを、じつは「あたりまえなんだよ」と説くことができると、ノーベル賞なのである。それがそう思えないのは、ふつうの世間の人たちこそ、まさに「個性的で独創的」だからであろう。
(『
無思想の発見』養老孟司)


このところ図書館に通つては、小林秀雄、池田晶子、養老孟司とほとんど偏執的に読んでゐます。どうしてこの人たちかと問はれれば、「私の好み」だと答へるしかないが、敢えて「好み」の理由を考へるなら、その答へが上の一文にあるやうな気がする。

つまり、「とうてい当たり前とは思へないことを、実は当たり前なんだよと説く」のが、どうもこの人たちなのです。

ふつうに考へれば、この人たちこそ「個性的で独創的」な、特別な才能の持ち主ではないか。「個性的で独創的」な人が、その特別な才能を駆使して「個性的で独創的」な思想を説けるのではないかと思へるでせう。しかし真実は、どうもまつたく逆なのです。

何らかの特別な才能があるとは認めます。しかし、彼らこそ最も「当たり前」の人たちなのです。「当たり前」の人なので、「当たり前」のことに気づく。そしてその「当たり前」のことをその如く説いてみると、「個性的で独創的」な世間の人を驚かせてしまふ。

世間の人は最初、「当たり前」のことが理解できない。「それは変だ、おかしい」と思ふ。しかしよくよく聞いてみる内に、「なんだ、あいつの言ふ通りぢやないか」と分かつてくる。

「当たり前」のことに最初に気づけるといふのが特別の才能だといふのなら、さういふ人はやはり特別の人だとも言へます。さういふ人でないと、ノーベル賞などはなかなか取れない。

我々は誰も等しく「当たり前」の人になるべく努力しなければいけない。大多数の世間の人は「当たり前」の人ではない。「当たり前」の人ではなく、「我がままな個性」の人なのです。それを「個性的で独創的」な人と呼ぶのです。

いやいや、そんなことはあるまい。人は誰も一人として同じ人はゐない。唯一の個性を持つてゐるのではないか。個性をこそ尊重すべきであつて、「当たり前」な人にとどまるべきではない。その証拠には、世の中全体も個性を重んじて「個性を伸ばす教育」を謳つてゐるではないか。

「個性万歳」。それこそ正論のやうに思へます。

個性を悪いといふのではない。無自覚で我がままな個性、つまり偶然である外的条件、家族、地域、友人、周囲の自然環境などに左右されて生じた個性はだめだといふのです。さういふ個性を持つた自分を自分だと信じている限り、「当たり前」のことには決して気づかない。

だから、「当たり前」な人とは、平凡な人の謂ひではない。我がままな個性を脱して、この世で最も重要であり根本的なことである「当たり前」に気づく人のことです。

孔子、仏陀、ソクラテス、イエスなど聖人と称される人たちはみな、「当たり前」なことに気づき、それを「当たり前」ではない世間の人々に説いた「当たり前」な人たちです。ここで「個性」といふ言葉を使ふとすれば、「当たり前」のことに気づく、その気づき方に「個性」があつたとは言へるでせう。

彼らの説いたことが本当に「個性的で独創的」なことであつたなら、誰にも理解されなかつたはずです。誰にもわかる「当たり前」のことであつたからこそ、理解されていつた。

もちろん、最初からそれが「当たり前」と理解されるわけではない。最初は「それはおかしい」と疑はれる。世間の人が気づいてゐないことを説くからです。それで最初は誤解を受けるし、甚だしくはソクラテスやイエスのやうに殺されさヘする。

しかし結局「当たり前」のことはいつか多くの人に理解されるやうになり、しかもその理解は数千年たつても変はらない。それが「当たり前」のことの真の価値です。

以上の「当たり前論」は養老先生の説く「当たり前」に基づいて私なりに敷衍してみたものです。まつたく「当たり前」の話ではないでせうか。

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