「私」は「心」といかに対話するか
本性の心が向く道を行くようになれば、宇宙と一つになります。それは弾丸よりも速く、より強いのです。そのようなところに至れば、自分の心と語り合うようになります。そのような境地では心と会話します。何かをしようと考えれば、既に返事が返ってきます。 そのような境地にいる人は、自分の行くべき道が分からないでしょうか。既に行くべき道は明確で、宇宙のあらゆる作用の力が助けるようになります。 (『天聖教』5-4-5-2 p.580) |
「そのような境地にいる人」とは、他の誰でもない。これを語つてゐる文鮮明先生本人でせう。文先生のさまざまなお話の中でも、私に最も分かりにくいのは、かういふ「心」について言及されるお話です。
文先生はかういふ話を自分の体験として語つておられるのですが、残念ながら私の体験はとてもそのレベルではない。それで論理としてはそれなりに理解できる気がしても、生活に即適用できる話としては理解が難しいのです。
「宇宙と一つになつた境地では、自分の心と語り合ふやうになる」
これはどういふことでせうか。
恐らく、文先生は自分の体験を言葉にするにおいて、とても悩まれたのだらうと思ひます。体験そのものには言葉はない。言葉はなくても、自分には体験されてゐる。
自分にとつてはそれでいいのですが、いざそれを他の誰かに伝へようとするとき、言葉が必要になります。しかし言葉そのものでは、所詮体験は分からないのです。だから、一つの体験はそれと同じ体験をした人でない限り、分からない。
私は体験が追ひつかないので、言葉で考へてみます。
順序は逆のやうですが、前半の「宇宙と私が一つになれば」といふ前提部分を後回しにして、まづ後半について。
「私」が「心」と語り合ふやうになると言ふ。これは一体、どういふことでせうか。
そもそも、「心」が「私」なのではないか。ふつうにはさう思つてゐます。なのに「私」が「心」と語り合ふ? ここが文先生の悩みどころだつたと思はれます。
「私」が「心」と話し合つてゐる。これが体験の実感なのです。しかし「私」と「心」が話し合つてゐるなら、「私」と「心」とは別ものなのであつて、「私」とは誰? 「心」とは何者? といふことになる。
この問ひに対しては、私も長い間悩みました。考えるほどに、「悩んでゐる私」とは誰なのかさへ分からなくなるのです。
「心」については、文先生の言葉をよく読むと、使ひ分けがある。ある時には「心」と言ひ、別の時には同じ文脈で「良心」と言つておられる。どうやら、「私」は「良心」と語り合へるといふことなのです。
これはつまり、「良心」は「私」自身ではない、といふことです。それで「良心」の正体を明確にするべく、ある時文先生は「良心宣言」をされた。
それによると、「良心」は「第2の神」なのです。創造主である本源の神が「第1の神」なら、人間一人一人を創るときにその人専属の「第1の神の分身」として「良心」を配置した。
「良心」は謂はば「育ての親」です。私を生んでくれた親も「生みの親、育ての親」ですが、こちらは「私」の「肉身」のはうの親です。それに対して「良心」は「私」の「霊人体」のはうの親と言つたらいいでせうか。
それで「良心宣言」は、
「(霊人体の父母である)良心は(肉身の)父母に優る」
と言ふのです。
「優る」とは、より「私」に近い、親しいといふことです。1日24時間絶えず「私」のそばにゐて、「私」の一挙手一投足を見つめてゐます。そして絶妙のタイミングでアドバイスをくれる。肉身の父母は、とてもかうはいかない。
「私」は「良心」と語り合ひながら、またその教示を受けながら、その霊人体を成長させていく。
冒頭の引用では、「宇宙と一体となった境地」で、「私」は「良心」と語り合へるといふふうに読めますが、対話そのものはそれ以前からできる。ただその会話の最初は、ぎこちなかつたり、他人行儀であつたり、距離感がある。それが次第に近い関係となり、遂には「私が良心であるのか、良心が私であるのか」区別のつかない境地に至る。
これで「心」の正体は、少し分かつてきた(やうな気がします)。問題は「私」のはうです。ここまで当たり前のやうに使つてきました。ところが、「私」とは誰か? これが自明のやうに見えて、実は、考へるほどに謎めいてくるのです。

にほんブログ村
kindle unlimited会員の方なら無料で、会員でない方は有料になりますが、ダウンロードしてすぐにお読みいただけます。 |
- 関連記事
-
-
み言葉は毎日食べても、おいしい 2015/05/14
-
感情に名札をつける 2010/01/10
-
手ぶらで帰すな 2009/11/04
-
神の年齢 2022/11/19
-
スポンサーサイト