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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

ふつうでない常識人

2020/07/16
愛読作家たち 0
池田晶子 小林秀雄 小林正観
20200716 

改めて気がついたことがある。私のところへ新聞から仕事の依頼がくるのは、見事にこのお正月だけなのである。ここ数年来の傾向を鑑みるに、これは確かにそうで、お正月特集、年頭の展望といったような企画にのみ、有難くもお声がかかり、あと一年は、ピタリと来ない。一年間の閑古鳥である。

これはどういうことかなあ、親しい編集者にたずねたら、決まっているでしょう、人が内省するのは年に一度でいいのです。夏の暑い盛りに営業で外回りしながら、池田さんの言葉なんか聞けません。お正月だけで、いいのです。
(『考える日々Ⅲ池田晶子


池田さんは自己紹介するときに「哲学者」とは言はないで、「文筆家」と言ふらしい。下手に「哲学者」などと言へば、大抵の人はちょつと引く。「変人ではないか」と警戒するといふのです。

それでも哲学的な専門用語を使はない哲学的文筆家なので、多少は使ひ道があると見えて、1年に1回、正月くらゐには新聞からお呼びがかかる。これを池田さん本人は「つまり私は鏡餅か」と、半分冗談めかして言ふ。

さういふ池田さんを、私は年がら年中読んでゐる。私も世間一般から見れば変人の部類かと思つたりします。

このブログでも池田さんについて触れた記事がだいぶあるのでAmazonから電子本(『なるほど、池田晶子』)として出したが、やはりなかなか読まれない。ほぼ同時に出した『なるほど、小林正観』の十分の一くらゐしか読まれない。著者の認知度から言つても、仕方ないかなといふ気がします。

『なるほど、○○』といふシリーズで順次3冊の本を出しました。もう1冊が『なるほど、小林秀雄』です。ところが実を言ふと、内心「なるほど」はちょつと後ろめたい気もしてゐる。

「なるほど」と言へば「分かった」といふ意味合ひですが、実際にはどこまで分かつてゐるのか自信がない。分かつたとしても、せいぜいその人のごく一部、しかもごく表層的かも知れない。さうは思ひながらも、もつと知りたいといふ思ひがやまない。特に、池田晶子小林秀雄については。

今思ふには、この2人は常識人なのです。ただ、ふつうの常識が自覚されない常識であるのに対して、2人の常識は深く自覚された常識だといふ(決定的な)違ひがある。それで2人の言葉にふれると、ふれた私も彼らに沿つてそれまでのふつうの常識を自覚し直すプロセスに同参できる気がするのです。

例へば、『論語』にかういふ孔子の言葉がある。

「未知生。焉知死」

「生のことも分からないのに、どうして死のことが分かるか」
季路から神霊について訊かれて、孔子がかう答へた。

このやうな孔子を池田さんは「常識の人」と評する。尤も、彼の常識はふつうの常識ではない。

普通の常識人は、当たり前のことは当たり前だから当たり前だと思つてゐる。しかし、当たり前のことはどうして当たり前なのかといふことを考へ始めてしまふ人が、どの時代にもごく一握り存在する。孔子はさういふ常識人だつた。

だから池田さんは孔子の答へをこんなふうに解する。

「生も死もわからないものなのだ。いや、わかるとはどういうことなのかがわからないのだ。わからないとわかるためには考えろ。考えながら生きることに意を注げ」(『人生は愉快だ池田晶子

ところがその孔子の言葉を弟子たちも後世も真逆に解したのです。

「孔子先生はわからないことは考えるなと言った、だから生のみ考えて生きるべきなのだ」(同上)

なぜ、さう解したのか。
生のことは分かつてゐると思つてゐるからです。

素直に見れば、孔子は確かに「未知生」と言つてゐる。それなのに、多くの人たちは「既知生」あるいは「生はそんなに難しくない」と思ひ込んでしまつてゐるのです。

まあ、こんなことばかり考へてゐるので、「お正月だけで、いいのです」などと言はれるのが関の山なのです。

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