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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

林檎のculture

2020/07/11
思索三昧 0
池田晶子
20200711 

「文化」といふ言葉は、それ単独で使ふとその意味するところが何となくふわつとして、判るやうで判らない。「日本文化」とか「企業文化」などと他の言葉と組み合はせると、もう少し判るやうな気がする。ある範囲の社会とか組織の中で、そこに属する人が獲得する多数の振る舞ひの総称を「文化」と言つていいでせうか。

語源を遡つてみると、昔から中国にはその語があつて、それは「武力によらず民を教化する」といふ政治的な意味でした。ところが英語のcuture、あるいはドイツ語のkulturといふ言葉に触れたとき、「文化」をその訳語に当てたのです。

それが馴染んできたので、今cultureと聞くと、すぐに「文化」といふ日本語に置き換へることはできます。ところがその語感はいまだにかなり抽象的で漠然としてゐる。

英語ネイティブにとつてcultureの語感はづつとはつきりしてゐるはずです。語感の核は「畑を耕して物を作る、栽培」といふ意味です。派生的な意味はいろいろあるにせよ、cultureと聞けば「栽培」といふイメージがまづ浮かぶ。それが語感です。

例へば林檎の木を育てて、立派な林檎の実を成らさうとする。そのために肥料を工夫したり、土を作つたり、枝を整へたりする。さうして日本なら「ふじ」とか「つがる」などといつたブランドが生まれるのです。

このとき、我々はその林檎の木といふcultureを持つたことになる。

ところが林檎の木はそれを伐つて材木にして、家を建てたり下駄を造つたりすることもできます。これもまた一つの林檎の木の価値とは言へるが、cultureは持てない。栽培が行はれてゐないからです。

林檎の木にはもともと立派な実を実らす素質があつた。本来のさういふ素質を人間の努力や工夫によつて実現させた場合、林檎の木を栽培(culture)したといふことになる。

一方、林檎の木からいかに立派な下駄を造つたとしても、もともと林檎の木に下駄になる素質はない。言つてみれば、人間が勝手に林檎を下駄にしてしまつたのです。林檎に限らずいろいろな材木からそれ独特の下駄を造れるなら、それも「文化」とは言へさうですが、cultureとは言へない。

我々人間の場合は、振る舞ひに品のある人を指して「文化人」とか「教養のある人」などと言ひます。しかしその人がいかに学を積み、知識を得たとしても、それが彼の本来の素質を育てないとすれば、cultureの人とは言へない。

「正義」すなわち「正しい」ということが、自分の幸福、すなわち「善い」ということに直結するのでなければ、そんな観念に従うことに何の意味があるか。
(『新・考えるヒント池田晶子


我々における「本来の素質」あるいは「善」とはどんなものでしょうか。

聖書によれば、我々人間は創造主神の「かたち」に似せて造られたとあります。そのやうに造つておいて、神は「生命の木」になれ、そして「生命の実」を実らせと祝福されました。

さうすると我々は、リンゴ農家が林檎の木を熱心に、細心の世話をしながら育てるやうに、生命の木をうまく育て、立派な実を実らせなければならないでしょう。

人は能力に応じて教師にもなれれば、消防士にもなれる。しかしそれらはどうも、林檎の木から下駄を造るのに近い気がします。誰でも能力と素質さへあれば教師になれるが、「私といふ生命の木」になれる素質は私にしかない。

私の中だけにある「神のかたち」はどんなものだらうか。それは私が目に見える実を実らせるまで、神自身にも分からないのです。

実を完熟させることを「人格完成」や「個性完成」と表現もしますが、言ひ方を換へればcultureの人、「文化人」「教養人」になることです。

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