黙つて一分間眺めて見るがいい
小林秀雄の体験談です。
昔イギリスに行つた折り、ロンドンのダンヒルの店でライターを一つ買ったことがある。特に何の特徴もないが、古風で、いかにも美しい形をしてゐた。
帰つてからはそのライターを書斎の机の上に置いてゐる。来客がたくさんある。書斎で煙草を吸ふとなれば、そのライターで火をつける。
ところが小林が言ふには、火をつける序でに、よく見て、「これは美しいライターだね」と言つてくれた人は一人もゐないと言ふのです。
ちょつと目を留める人はあるが、ちらりと見たかと思ふと、直ぐに口をきく。「これはどこのライターだ?」「ダンヒルか?」「いくらだつた?」。それでおしまひ。黙つて1分間も眺めた人は一人もゐないと言ふのです。
これは何も、小林が目を利かせてロンドンの名店で買つてきたライターの価値が分からないのかと言ひたいのではない。
諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めてみるといい。一分間にどれ程沢山なものが眼に見えて来るかに驚くでしょう。そしてライターの形だけを黙って眺める一分間がどれ程長いものかに驚くでしょう。 (『美を求める心』) |
「黙つて眺める」といふのは、言葉を発せずに、といふことです。「誰の作か」とか「値段はいくらか」などと一切考へず、言葉にも出さず、ただぢつと眺めるのです。
言はれてみると、確かにさういふ眺め方を我々はふだんあまり(といふか、ほとんど)してゐないかも知れない。
眺める対象は、もちろんライターのやうな小物に限つたことではありません。道を歩いて一輪の花を見つけたとする。見ると、菫(すみれ)だと分かる。「何だ、菫の花か」と思つた瞬間、小林が言ふには、我々は目を閉じる。花の形も色も見るのを止めるといふのです。
「菫の花」といふ言葉によつて、我々は今目の前にある花のことが分かつたやうな気になる。だからもうそれ以上その花をぢつくり眺める必要を感じなくなるのです。
ところがもし、黙つて花を見続けてゐれば、花は嘗て見たこともなかつたやうな美しさを見る者に明かすだらう、と小林は言ふ。
多分小林はロンドンの店の中で、一つのライターを、黙つて、一分間どころか何分も眺め続けたのだらうと、私は想像します。そのことによつてライターは、秘めた美しさを小林に明かした。それは小林にとつて、もはや疑ふ余地のない美しさだつた。
ところが、そのライターを目にした他の誰一人、小林が見つけた美しさに気づいた人がゐない。それは何も小林にだけ特別の審美眼があつたといふことではない。ただ、黙つて眺めることができるかできないか。その違ひなのです。
一流の画家はそのあたりの秘密を知つてゐるのでせう。あるいは意識的にそのやうな眼を養つた。睡蓮の花は昔からあつたが、その美しさを睡蓮から明かされたモネが初めてその美しさを表現した。その絵を見ると、鑑賞者は「睡蓮はこんなに美しかつたのか」と気づかされるのです。
人についてもさうです。「この人はかういふ人だ」と言葉で規定した途端、我々はその人の本当の美しさや善さに対して目を瞑つてしまふでせう。

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