君は君自身でゐ給へ
文字の数がどんなに増えようが、僕等は文字をいちいち辿り、判断し、納得し、批評さえし乍ら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。この様な精神作業の速力は、印刷の速力などと何んの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり目の覚めた世界に連れて行く。 (『読書について |
昔一度だけ「速読」に挑戦したことがありましたが、すぐに止めてしまつた。私には目に負担が大きくて、心地よくなかつたのです。
だからそれ以後も、読書のスピードは相変はらずゆつくりで、大抵の本は読み終へるのに3日以上はかかる。年を取るにつれて視力と集中力が衰えてきて、スピードはさらに低下してゐる。1ヶ月に3~4冊くらゐが今の体力合つてゐるといふのが実感です。
今にして思へば、これでいいといふ気がします。小林の言ふところにヒントを得て考へれば、読書の醍醐味はただ単に何か新しい「情報」を得るところにはない。「書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する」ことが読書の味であり、心の養分ともなるのです。
自力で心の一世界を再現しようとすれば、時間がかかる。没頭が必要になる。読む途中で度々立ち止まり、自分がぼんやりしてゐないかどうか確認しなければいけない。そのとき頭に入らなければ、後でまた何回でも読み直せと書物に命じられる。
そんなふうに書物と附き合つていけばどうなるか。小林はこんなふうに言ひます。
「みんな書物から人間が現れるのを待ち切れないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でい給え、と」(同上)
「君は君自身でい給え」とは、どういふことでせうか。書物に印字された言葉は著者の言ひたいことです。その言葉が表す著者の思想を知らうとしてその書物を読むやうに、ふつうは思ふけれども、さうではない。その言葉の背後にゐる著者といふ人間に出会ふために読んでゐる。そして読み込んでいよいよその著者が現れてきたら、彼は私に言ふだらう。「私の書物を読んで、君は自分自身のことがよりはつきりと分かつたかね」。
つまり、読書は誰彼の思想や何やかやの新しい情報を得るためにするものではない。自分自身を知るためにする。書物といふのは自分を見るための「鏡」の役割をするのです。
大抵の読書は「書物から人間が現れるのを待ち切れない」。ただ、その著者の言はんとすることだけを理解して終はらうとする。さういふ読書なら速読でもある程度できさうですが、人間が現れるにはやはりそれなりの時間と忍耐が必要でせう。
私が小林秀雄の書物を読めば、彼が人間として私の前に現れて来るのが本当に味はひのある読書といふことになる。しかしまだその境地には至つてゐません。
「訓読」といふのも、その言葉を語つた人が現れるまで待つといふことでせう。その人が現れれば「君は本当の君自身でゐ給へ」と言ふに違ひない。

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