み言葉になる
以前にも何度か取り上げたことのある、本居宣長の
「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」
といふ言葉。
(「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」「『姿』はどうして似せ難いのか」)
これを小林秀雄が取り上げ、その小林の言葉をさらに池田晶子が取り上げてゐるのに出会ひ、引き込まれるやうに読みました。(『新・考えるヒント
池田さんの文を読むと、私の見立てなどより数段は深みがあつて、どうにも敵はないなあ、といふ感じです。
池田さんも言ふやうに、多くの人は小林秀雄に惹かれながら、それでゐて「小林秀雄は難しい」と嘆く。
私も小林は難しいと思ふ。
しかしこれは何を示してゐるかといふと、
「小林が何を言つてゐるのか、それが分かりにくい。彼は結局何を言はうとしてゐるのか」
といふことなのです。
それなのになほ、(私も他の多くの人たちも)なぜ小林に惹かれて止まないのか。
それは小林が宣長の言葉を借りて(自分の思ひを)述べたやうに、
「意(その言はんとすること)は二の次で、彼が打ち出す言葉の姿(強さ、凛々しさ)が第一だから」
なのです。
「意」と「姿」の関係について、一般には
「言ひたいこと(意)があつて、それを形にして伝へるために言葉(姿)がある」
と考へる。
しかし真実はその真逆なのです。
池田さんの文を読んで、そのことが改めて明らかになり、私の腑に深く落ちました。
後代の人の中で小林と類似した考へを持つ人がゐるとする。
その人がその類似した考へを自分の文で書いたとしても、その文の「姿」は小林のそれに似てゐるか。
決して似ないのです。
小林の言葉の「強さ」「凛々しさ」はまつたく彼独特のもので、それを真似ることはほぼ不可能なのです。
小林の独自の「姿」は、独自の「意」があつて、それを現すために形成されたのでせうか。
厳密に言ふと、「意」と「姿」は因果関係にあるのではなく、「姿」が形成される過程で「意」も同時に作られてゐるのです。
この2つはあたかも双子のやうなもので、互ひに切り離すことはできない。
「意」がなければ「姿」がないと言ふ以上に、「姿」がなければ「意」はない。
これが「言葉こそ第一で、意は二の次である」と、小林が(宣長も)言ふ理由です。
私にとつて小林の文は難解で、分からないままに読み進める部分も多い。
そのとき私が味はつてゐるのは、有体に言つて、彼の「意」ではなく、彼の言葉の「姿」なのです。
彼の言葉の姿の魅力に引つ張られてゐるのです。
姿を味はつてゐるうちに、意が合点されていくこともある。
梅雨の雨が上がつた後、凛として庭に咲いてゐる薔薇の花を見るとき、その「姿」に魅入られてゐます。
薔薇は自分の「意」を人間のやうに語りはしないが、じつと「姿」を見続ければ、自ずと薔薇の「意」を察することはできるやうに感じるときがあります。
独り薔薇に限らない。
波が荒れる夕暮れ時の海にせよ、その上を風に乗つてゆらゆらと旋回するトンビにせよ、彼らは言葉を発しないが、その「姿」をじつと見てゐると、その奥に「意」を感じる。
だから繰り返す高波を見続けてゐると、その「姿」と「意」とが相俟つて迫つて来て、何とも言へない迫力に圧倒されるのです。
かういふ体験は誰でも普通にすることでせう。
小林体験も、基本構造はそれと同じことです。
言葉と言ふのは、単に「意」を伝へるために生まれたものではないと言へます。
例へば、聖書の冒頭に
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(創世記1:3)
とある。
ところがこの「光」といふ言葉は、どこから来たのか。
「光」がある前に「光」といふ言葉があつたとは思へない。
「光」と「光といふ言葉」とは、同時に生まれた。
むしろ、「光といふ言葉」が「光」を創つたと言へなくもない。
「光」に限らない。
この世の森羅万象も、我々人間一人一人も、言葉によつて創られた。
言葉によつて創られたものは、その言葉が示すものになつていくのが唯一の宿命でせう。
私が「人間」であり「男」であるなら、私はその言葉が示すものになる以外の人生の道はない。
「み言葉」
と呼ぶものがあります。
教会に行けばそれは礼拝の説教で語られたり、セミナーで教へられたりする。
しかし「み言葉」の本質は、語られたり教へられたりするものではない。
「み言葉」で示されてゐるものになるより他のことはない。
私も教育部長の時代に、随分「み言葉」を教へたり解説したりしてきました。
しかし今となつては、「解説」などといふのは少し虚しい感じがする。
解説者は往々にして「み言葉」の横にゐるのです。
今も
「お父様のみ言葉の真意はかうだ。私が正統で、お前は異端だ」
といふ論争があります。
しかし「正統」になつてどうするのか。
私には「み言葉」になる以外に、他の道がないのです。

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