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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

聖トマスは事実なくして信じない

2020/06/13
読書三昧 2
聖書
20200613 

知人の勧めで『ある異常体験者の偏見』(山本七平)を読んでみました。

山本七平つて、懐かしい。といふか、正直なところ、学生時代に『「空気」の研究』や『日本人とユダヤ人』をちょつとかじつたくらゐです。

内容は50年近く前の『文芸春秋』に所収の複数の記事です。その中で一番興味深かつた「聖トマスの不信」の所感をまとめてみます。

トマスはイエス・キリストの12弟子の一人です。
イエス様が十字架で亡くなつた後、墓中3日を経て、おそよ40日間に亘つて残された弟子たちの前に現れるといふ期間がある。そのとき勿論イエス様はすでに肉体がないはず。肉体のない人を弟子たちがどのやうに見たのか、あるいは見えないで感じたのか、それはよく分からない。多くの弟子たちは、それでも自分たちが直面してゐるその方がかつて従つてゐた師であることを疑わなかつたのです。

ところが、トマスだけは無条件に信じなかつた。

「私はその手に釘の跡を見、私の指をその釘跡に差し入れ、また私の手をその脇に差し入れて見なければ、決して信じない」(ヨハネ福音書20:25)

その8日後、弟子たちが集まつてゐる家にイエス様が訪ねて来られた。そして迷わずトマスに向つて言はれる。

「あなたの指をつけて私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に入れて見なさい」

トマスは言はれたままにしてみる。その方の手には、十字架上で刺された釘の跡がある。その脇にはローマ兵に刺された槍の跡がある。

それを確認した後で初めて、
「わが主よ、わが神よ」
とトマスは信仰を告白するのです。

これを山本さんは
「聖トマスの不信」
と呼ぶ。

この話がどこまで現実的なのか、私には分からない。しかしたとえ象徴的にであらうと、この一連の確認作業には重要な意味があると、山本さんは指摘するのです。

イエス様はトマスの不信を排除も叱責もしておられない。聖書自体も周りの弟子たちも、彼を不信者として非難してゐない。

他の弟子たちはトマスのやうに主に触りもせずに信じたのに、
「疑ふとは何事か。見ないで『事実』といふことにしろ」
とはトマスに強制してゐない。

この態度は絶対に正しい、と山本さんは言ふ。

他の弟子たちがトマスをなぜ止めなかつたかといふと、彼らは肉眼には見えないにしても、その方が主であることに間違ひはないと確信してゐたからだ。トマスが確認しても決して自分たちの信仰を揺るがすことにはならないと思つてゐた。
これが山本さんの見立てです。

私なりに考へても、12弟子の中にトマスのやうな人がゐたことは幸ひだつたと思ひます。

11人は見ないで信じた。しかし後の時代においては、そのときのイエス様が本物であつたかどうかを確認する術がないのです。

「当時の弟子たちは何かを感じて信じたかもしれないが、本当にイエス様だつたのか」
と疑ふとき、どう説得すればいいのか。

トマスはその意味で、後の時代のすべての信仰者たちの代表者であつたのです。

「私も信じ難いから疑つて、直に触つて確認してみたのだ。さうしたら、本当に傷がある。これはもう疑ひやうがない」

さういふ「事実」に基づく信仰を、彼は彼の後の二千年のキリスト教に残したのだと言へます。

山本さんがこの聖トマスの逸話を取り上げたのには、山本さんなりの意図がある。当時起こつてゐた政治問題に敷衍できると考へた。その政治問題においては、「事実」をもつて現実問題の不信を払拭しようとする「良心家」を糾弾する人々がゐたのです。

「事実」を「事実」として見ようとせず、頭ごなしに
「そんなことを言ひ出すとは、なんといふ不謹慎な奴だ」
と糾弾するのです。

しかし「事実」を発見した人がその「事実」をもし発表せず隠したとするなら、それこそ不誠実、学者であれば「曲学阿世」と言はねばならない。

「聖トマスの不信」とはつまり「事実なくしては信じない」といふことです。それをイエス様も他の弟子たちも許容した。それは許容されるべきであり、許容されることで組織や社会の健全性が保たれる。しかし現実には、なかなかそういふ寛容性が維持されることは容易ではないやうです。

ある場合には「思想(イデオロギー)」が、別の場合には「お金(利権)」が、また他の場合には「教義(信仰)」が、「事実」よりも優位に立つ。あくまでも「事実」を確認しようとする人がゐると、「愚かな厄介者」とか「不信仰者」といふラベルが張られる。

想像してみると、トマスにはやはり勇気が必要だつたと思ふ。周りのみんなが見ずして信じている中、一人自分だけが「見なければ信じない」と言ふ。これは周囲からの反発、あるいは迫害さへ覚悟しなければならない状況です。トマスはそれを想定し、覚悟してゐたのだらうか。

幸ひにして彼が周囲から排斥もされず12弟子の一人に留まれたのは、単に運がよかつたからとは言へない。あの時は「確かに主であると言ふ事実」の重要性について、主を中心として弟子たちの間に共通の認識があつたのではないでせうか。

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Comments 2

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石神井翻訳亭

kitasendoさん

昨日は、わたしのサイトにご訪問頂き、ありがとうございました。

kitasendoさんは、宗教者でいらっしゃるんですね。これから、いろいろと教えてくださいませ。

今日も、元気がでるクリック応援をさせて頂いて帰りますね。

2020/06/13 (Sat) 15:34
kitasendo

kitasendo

Re: タイトルなし

石神井翻訳亭さん、コメント有り難うございます。
お互ひコメントは力になり励みになりますね。

2020/06/14 (Sun) 13:34