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夫婦70年時代の「夫婦学」

kitasendo
20200610

人生100年時代、下手すると、夫婦は70年も一緒に暮らす。夫婦が共に仲良く暮らすためのテクニックや哲学を、人類はもっと研究しなければいけないような気がする。「夫婦学」があっていい。
(『夫のトリセツ』黒川伊保子)


70年はいくら何でも長いなあ。
それでも50年くらゐ(金婚式レベル)なら、かなりの夫婦が一緒の生活を経験するでせう。
半世紀にも及ぶこんなに長い共同生活は夫婦以外ではほぼあり得ない。
確かに、それをうまく仲良く幸福に過ごすための研究はもつとあるべきだらうと思ひます。

元々男女の脳は初期設定が真逆なほど違つてゐる。
神様はそもそも男女が長く一緒に暮らせないやうに設計して創つたのではないか。
さう疑ひたくなるほどです。

そのやうな男女が結婚して「天国生活」を実現しようとするなら、黒川さん曰く、
「よほど知性的に暮らさないといけない」。

そこで、学術レベルの「夫婦学」がまとまるには時間がかからうから、取り敢えずの応急措置として出したのが、黒川さんのこの「トリセツ」です。
しかし応急に止血するバンドエイドとしては、出来栄えはすこぶるいい。

夫婦が共に過ごす家庭といふ狭い空間において、女性脳が男性脳に対して優位に立ちやすいのには、理由があります。

男性脳は、半径3メートル以内で起っていることに、とんと意識が行かない。目の前のものを見逃すし、妻の所作の多くも見逃す。だから、妻が「当然、わかっていて、きっと手を差しのべてくれるはず」と思っていることに気がつかないのである。
(同上)


だから若夫婦なら、妻が赤ちゃんのおむつを替えてゐて、赤ちゃんが寝がえり打つたためにお尻拭きを取れないで困つてゐるのに、傍らの夫は気がつかない。

そのとき妻は
「分かつてゐて無視した」
と思つて、深く絶望する。

しかし実は、半径3メートル以内の情景は夫の脳に補足されてゐないだけなのです。
夫には何の悪気もない。

これまで長い歴史の期間、男性脳は半径3メートル以内の世界を女性脳に任せてきたのです。
その上で男性脳は、半径3メートルよりも外側の世界に集中できる。
それが男性脳の役割でした。

それが今や、さうとばかりも言つてゐられない。
特にこの問題が顕在化してくるのが、夫の定年後です。

それまで数十年間、夫は半径3メートルよりも外側の世界、つまり仕事の場で主要な役割を果たしてきた。
その間、半径3メートル以内の世界は妻に任せてきたのです。

ところが定年になるといふことは、夫も半径3メートル以内の世界をその主要舞台にするやうになるといふことなのです。
ここで問題がこじれると、最悪「定年離婚」にまで発展する。

男性脳にしてみれば、
「これまで一生懸命家族のために働いてきてやつとゆつくりできると思つてゐたのに、これは一体何なんだ!」
といふことになる。

定年が60歳乃至65歳とすれば、結婚生活35年ほどになります。
ここで半径3メートル以内の世界に夫婦2人で仲良く入り込めるかどうか。
それが「人生最大の正念場」だと、黒川さんは言ふ。

家庭の中にある仕事は「家事」です。
この「家事」について、黒川さんはこんなふうに言ふ。

家事は、生きるために免れない営みであり、生きる喜びでもある。家事に主体的に参加して、自立して生きられることは、人生の尊厳につながっていると私は思う。
(同上)


私自身も定年退職して3ヶ月。
妻がゐないだけ、余計に
「これが家事なんだなあ」
といふ感慨を時折抱くことがある。

今までもしてきたことではあるが、おばあちゃんがほぼ家事をできなくなつてから、娘が担当する夕食以外はほぼすべて私がする。

日々のゴミを分別しながらゴミ箱に入れる。
ゴミ収集日をメモしておいて、朝になつたら忘れずに出す。
食事が済んだら食器を洗つて、種類別に所定の食器棚に格納する。
布巾で食卓を拭き、汚れたスポンジと一緒に漂白剤に浸けておく。
おばあちゃんの簡易トイレの水を毎日1回取り替へる。
週に1回は布団を日干しし、シーツを洗ふ。
玄関を掃く。
犬のウンチを片づける。
板間のモップ掛けをする。
夕方帰つて来る娘のために、スリッパを揃えておく。

まあ、いちいち挙げればきりがない。
その多くを黒川さんは「目に見えない、何でもない家事」と言ふ。
しかし、家事といふのはその「何でもない家事」から成り立つてゐる。
実際にやつてみれば、そのことが腑に落ちます。

そのやうな、男性脳では気づかない「何でもない家事」のほとんどを、妻たちは長い間自ら一手に引き受けてきた。
なぜかと言ふと、「夫を支へたい」し、「子どもが可愛い」し、「夫は家事が下手」だから。
でもそれは「一時的状態」だと、黒川さんは言ふのです。

夫が定年になれば、その「一時的状態」は終はりを告げる(はず)。
妻たちはさう思つてゐる。

だから定年夫が
「今日のお昼は何?」
などと聞くのは言語道断。
「お昼はどうしようか?」
と聞くのが当然なのです。

そのやうに「主体的に」家事に参加する。
それが人生の尊厳につながるといふ黒川さんの一文に、私はハツとしました。

「そこまで言へるかなあ? でも、さうかも知れないなあ」

できるのにしない夫を見れば、その夫に妻は「尊厳」を感じるか?
夫婦といふのはやはり50年以上連れ添ふだけの価値がある。
他にはない深い世界に入って行けるのが夫婦といふものです。

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