事態はすべて私の中で起つてゐる
財布を開けば、その中にはお札も硬貨も入つてゐて、それを取り出して使へばそれ相応のものを買へる。
銀行の通帳を開けば、その中には出入金がいくらいくらと印字されてゐる。
だから
「お金はある」
と思つてゐます。
しかしお札はそもそも小さな紙切れだし、通帳の金額数字は機械による印字に過ぎない。
それがその額なりのものと交換できるといふ信用があるために、価値あるものとして流通してゐるのです。
だから
「お金は幻想である」
と言へます。
この世に本当に存在するものはどれくらゐあるのでせうか。
「社会」といふものはどうでせうか。
「国家」はどうでせうか。
これらも実体がない幻想です。
確かに多くの個人が集まつて社会を形成し、国家が成り立つてゐます。それは事実です。
しかしそれらは、個人の集合体に付けられた名称以上のものではない。
社会などといふ実体のあるものが、個人の意思を越えたところに存在し、個人を規定するものとしてあるのかといふと、決してさうではない。
もちろん、社会のルールや国家の法律などが個人の自由を規制することはあつたとしても、その決まりに従うか従わないかは完全に個人の自由です。
そのやうに考へると、本当に確実に存在すると言へるのは、「私といふ個人」であり、もう少し言へば「私といふ精神」です。
何を決め何を行ふかは、「私といふ精神」にだけ委ねられた自由です。
これはとても自明なことだと思へるのに、どうしてそれに気づかないふりをして我々は生きてゐるのでせうか。
自らその自由を望まず、自由に伴ふ責任を負ひたくないといふ無意識の働きがあるやうに思へます。
だから、身の周りに何か問題が起きると、
「社会が悪い」
などと言つて、実体のないはずの社会を責めたりするのです。
本当の自由は「私の内部」にしかなく、すべての問題は「私の内部」でしか起こつてゐない。
しかしほとんどの場合、我々はそのことに気づかない(ふりをしてゐる)のです。
ニュース報道を見ていても、それを感じることがあります。
どの報道でもいいのですが、例へば
「小池都知事のロードマップに批判の声」(日刊SPA!)
を拾つて読むと、
「小池百合子都知事の舵取りに注目が集まっている」
「そんな万全を期したはずのロードマップが不評を買っている」
「都民ファ作成のロードマップを手渡したのに、出てきたのは大阪のパクリという不満の声も」
などなど。
「注目が集まっている」「不評を買っている」「不満の声も」と、いづれもどこかの誰かがさうしてゐるかのやうに書いてゐます。
しかしこのやうな記事を書くのは、それを書く記者自身が「注目している」からであり、「不評だと思っている」からであり、「不満だと感じている」からでせう。
そのやうに思つてゐるからこそ、それに沿ふやうな情報を集め、そのやうな記事を書くのです。
だから本来は
「私が注目してゐる、私が不評だと思ふ、私が不満だ」
と書くのが最も正直な態度です。
ところがその記者は意識的かどうか分かりませんが、自分の外側の誰かが「そのやうに思つてゐる」と思ひ込んでゐる。
本当はその逆で、ニュース記事の元はすべてそれを作る人の中にあるのです。
東京都のロードマップ発表自体はニュースではなく、一つの単なる人々の活動に過ぎない。
誰かがそれをニュースにしようとして初めてニュースが誕生する。
ニュースがどこか私の外にあると思ふのは、幻想です。
事態はすべて自分の中で起つてゐます。
「人は自分自身を、自分の体験の源だと理解しない。祈りが、懇願者によつて懇願者の中で起きてゐることに向けられることなど、滅多にない」
とイハレアカラ・ヒューレン博士が言つてゐるのは、そのことです。

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