神が私の人生を生きる
つまり、言いたいのは美は醜の別名であるというようなことなのです。もっと言えば、あるものはその対立物と同一である。ですから、こうなれば、本当のことは嘘のことになり、絶対に否定されず、絶対に肯定もされないのです。では、何なのだと言われると、僕は、『それ』は『これ』だと答えることにしています。 『それ』とは、では何か。それは今まさしく、こうして、『それ』と問うている『これ』なのでしょう。目に見えない唯一のものが目であるのと同じように、ですからメビウスの帯は見えないのです。 そんなふうな、いわばインスピレーションの賜物として、メビウスの帯が降ってきた時から、ぼくは「普通の」暮らしがどうしてもできなくなってきたのです。 (『人生のほんとう』池田晶子) |
これは池田さんのところに送られてきた17歳の高校生からの手紙の一節です。
内容は私にも分かりにくい。
飛び飛びの引用では尚更でせう。
しかし、池田さんはこれを
「実に清々しい。この年で、この人は『色即是空』を掴んでしまつた」
と評してゐます。
『人生のほんとう』は池田さんの連続講演録。
その中で
「人生は絶対不可解なもの。生も死も実体のない現象であつて、一つの『意味』に過ぎない。自分も、共同体も、国家も、お金も、普通には『ある』と思つてゐるが、みんな幻想だ」
といふやうなことを言つてゐます。
これだけでは「何ものにも大した価値などない」といふ虚無主義のやうに聞こえます。
しかし、池田さんが言ひたいのはさういふことではない。
普通には、「私」といふ個人は確かに存在してゐて、自分の意志で自分の人生を生きてゐると思つてゐる。
しかし本当のところは、さうではない。
なぜだか知らないけれども、「在つて」しまつてゐる。
存在するといふのは宇宙の形式である。
だから、私も在るしかない。
その宇宙の形式の中で、私だけでなく、森羅万象が存在する。
そのやうな自覚に至つてみると、自分なりの「人生設計」などといふものは枠を作つてしまふことで、却つて自分を不自由にしてしまふ。
アンチエイジングなどといふ努力も意味がない。
こんなふうな講話が続きます。
しかし、ここで池田さんが認めるのは「存在するといふ宇宙の形式」だけであつて、宇宙の内容とかあるいは目的などはないのであらうか。
「人生絶対不可解」といふけれども、人生の意味は永遠に分からないのであらうか。
19のときに家庭連合に出会つて以来、私は
「宇宙には存在の目的があり、人生には明瞭な目標がある」
と考へてきました。
その考へは今も基本的に変わらないけれども、しかし「不可解」なことも多いのではないか。
さういふ気もするのです。
その中でも最も不可解と思へるのは
「自分とは何者なのか」
といふことです。
池田さんも繰り返し言ふのですが、「自分」といふのは、考へても考へても分からない。
といふより、考へれば考へるほど分からなくなる。
あまり考へなければ
「私は私でしよ。あの人でもこの人でもないのが、この『自分』だ」
と思つてゐます。
しかし
「自分を私だと思つてゐる私は何者なのか」
と考へると、分からなくなる。
17歳の少年が書いてゐたやうに、
「目(私)に見えない唯一のものが目(私)」
なのです。
聖書を見ると
「神は自分のかたちに似せて人を創つた」
あるので、
「あゝ、それが私なんだ」
と思へます。
しかし
「大元の神様からどうして神様自身ではない『私』といふ意識が生まれてきたのか」
と考へると、うまい答えが見つからない。
「私は存在する」
と思つてゐるが、それはもしかして思ひ違ひではないか。
下手に
「私は存在する」
などと思ふから、自分なりに人生を設計してみたり、その結果思ひ通りにいかないと言つて悩んだりするのではないか。
生まれてしばらくすると「私」といふ意識がはつきりと現れ、成長するにつれて
「私がこれをしなければ」
といふ思ひが強くなつていきます。
さうしながらも「私」とは何者なのか、よく分かつてゐないのです。
それなのに、私が
「これは善く、これは悪い。これは美しく、これは醜い」
と峻別するのも、これはどういふことだらう。
メビウスの帯のやうに、善いと思つて進んでいくと、いつの間にか悪いに行き着く、美しいと思つてゐたら、いつの間にか醜い、といふふうに、この世の存在はすべて神の中にあるのに、何を基準として私は善悪美醜を決めてゐるのか。
また、私が存在であるなら、存在には「今」しかないはずです。
死と死後の世界はいつか来るかも知れないが、私にはつねに「今」しかない。
不安といふものも、そのすべては未来(未だ来てゐない)に関はつて生まれるのです。
「私」についてあれこれ考えてみると、
「私が自分の意志で人生を設計する」
といふ考へはやはりちょつとおかしいのではないかといふ気がしてきます。
「私」が本当には存在しないものであれば、「私の人生」は「神の人生」になる。
神が「私」の人生を生きるといふことになる。

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