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おばあちゃんが私の課題だ

kitasendo
20200427 

自分の生活の中にある一つの問題が出てきたとき、それをどのやうに受け止め、どのやうに対処していくか。
今私の眼前に現れた問題を題材として考へてみようと思ひます。
現在まだ葛藤中なので、すつかり解決できたといふものではなく、取り組み中だといふことをご了解ください。

目下の問題とは、おばあちゃん(90歳の母)に関はることです。

おばあちゃんの老化は日に日に進んでゐて、昨日までできてゐたことが今日はできなくなつたといふやうなことが一つづつ起こつてきます。
最新の変化は、数日前から一人でトイレに行けなくなつたこと。

5年くらゐ前に指摘された緑内障は確実に進んで、今やほとんど視力を失うところまできました。

今は朝なのか、昼なのか、夜なのか、分からない。
いつでも同じやうに暗いので、朝になつても
「もう暗いね。寝る時間?」
などと聞いてくる。

それでも1週間ほど前まではトイレに1人で行くことができた。
昼間なら台所からトイレへ。
夜中なら寝室のベッドからトイレへ。

これまで繰り返し往復してきた動線を体で覚えてゐるので、手で壁やドアをまさぐりながら、何とか独力で用を足して戻つて来れてゐた。

ところが数日前から、独力ではトイレに行けなくなつたのです。
方向感覚がなくなつて、定位置からでもどの方向へ向かつて行けばトイレに到達できるのかが分からなくなつた。
それで行くに任せると、あらぬ方向に行つて、そこらじゆうをウロウロと行つたり来たりする。

問題は夜中です。
平均して3回、尿意を催してトイレに行かうとする。
ところが今やトイレの方向が分からない。

壁に手を当て、襖を無理やり開けようとしてガタゴトと音を立てるので、私も目が覚める。
布団から出てトイレまで手を引いていき、用が済んで出てくるまで待つて、また手を引いてベッドに戻る。

今は私も退職したてで失業中だからいいが、それでも夜中に3度も起きて動けば朝は起き辛い。
昼間も眠気が来る。

これが目下の問題(と思へるもの)です。
この問題をどのやうに受け止めて対処すればいいか。

この問題を普通に見れば、おばあちゃんの老化が原因です。
老化は止めることができない身体的自然現象なので、どうしようもない。
それを補ふ方法を考へるしかありません。

問題は夜のトイレです。
ベッドからトイレまで、今のおばあちゃんには距離が遠すぎる。
トイレのドアを開け、便器をまたぎ、用を済ませたら水を流し、またベッドまで帰つてこなければならない。
これがおばあちゃんには困難な大事業です。

今朝、お世話になつてゐるケアマネさんを訪ねて相談しました。
すると「置き型の簡易トイレ」はどうかと言ふ。
少し重くて安定したものは2万円以上するが、要介護2であれば1割負担で購入できるとのこと。
それなら随分助かります。

ただ問題は、それをどこに置くか。
いくら蓋があるとは言へ、まつたく臭ひが漏れないといふわけでもありません。

ともかく、このやうに対処していけば、問題は部分的にでも少しづつ解決されるでせう。

ところが実のところ、本当の問題は別のところにあるのです。
それは今のおばあちゃんを見るときの私の心。
心の中の問題なのです。

目がよく見えないのだから、おばあちゃんがあちこちウロウロするのは仕方ない。
本人にすればどれほど気が塞ぐことか。
同情し、手を貸し、労はつてあげるのが道理のはずです。
それは頭では分かるのに、私はその姿を見るとイライラし、無性に腹が立つてくるのです。

「毎日何回も同じルートを往復するのに、どうしてそれが分からないのか」
と思ふ。

夜中に起こされ、手を引いてトイレを済ませてあげると、布団に入つてからおばあちゃんは、
「有り難うね。あんたがゐなかつたら、トイレに行けなかつた。起こしてごめんね。有り難うね」
と繰り返すのです。

涙を流さんばかりに、仏を拝むかのやうに言ふのです。
それなのに、私のはうは何も答へない。
とにかくイライラして、答へる気になれないのです。

「これが本当の問題だな」
と思ふ。

問題は、一見母の老化にあるやうに見えます。
しかしそれは現象に過ぎない。
本当の問題は私の外(母の老化)で起つてゐるのではなく、私の中で起つてゐるのです。

おばあちゃんと生年月日がまつたく同じ叔母さんが、すぐ近くに住んでゐます。
叔母さんは腰こそ曲がつてゐるものの、目もよく見え、耳もよく聞こえ、頭もしやんとしてゐる。
天気がよければいつでも庭の草取りやら花の手入れをしてゐる。

「それに比べて、うちのおばあちゃんは...」
と比べることもできます。

しかし、このやうな母を持ち、母がこのやうになるのは、私のためではないか。
おばあちゃんが好きでそのやうになつたのではない。
私の課題のためにそのやうになつてくれたのだ。
おばあちゃんが私の課題だ。
そして、その課題を私に与へた方は神様に違ひない。

さうは思ひながらも、腹が立つた当座はしばらくその立腹が治まらない。
おばあちゃんへの態度も言葉遣ひも荒くなる。

さうしながら
「おばあちゃん、可哀さうだよな」
といふ自責の念を感じる。

目もよく見えない、腰も痛いといふのに、
「息子からこんな理不尽な扱ひを受ける謂れはない」
と思ふだらう。

思はれても、弁解はできない。

問題は私の中にあり、問題解決の鍵も私の中にある。
(不思議なことに、かういふふうに文章で書いてまとめてみると、しばらくの間は私の心が穏やかになるのです)

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日韓太郎

相続継承

私も約5年老いた父と一緒に過ごして「私の課題」を父を通して見せてもらいました。老いて父の代わりにすべてを「相続継承」する立場に立つべき私が、それにふさわしい姿ではないのですから、かえってそんな自分を観て恥ずかしくなるわけです。今日ここにこの私があるのは父があってこそなのにそんなことも忘れて今目の前に見える父の姿だけを観て心を乱してしまうのですから不足な息子であるわけです。むしろ父がどんなふるまいをしても頭が上がらない、何をしても感謝すべき尊い父であるはずなのにその父の姿を観ない傲慢な自分の姿がありました。

2020年04月30日 (Thu) 11:17
kitasendo
kitasendo

Re: 相続継承

日韓太郎さん、随分久しぶりのコメント、有り難うございます。
本当に私の目は、今目の前に見える姿に囚はれてしまいますね。
その人の中にある絶対者を見るには、まだまだ遠いレベルにゐます。

2020年04月30日 (Thu) 13:09
kitasendo
Admin:kitasendo