どのやうな縁かを知る縁(よすが)はない
「これも何かのご縁ですね」
といふやうな言ひ方を、私たちは今でも時々することがあります。
偶然に出会つたやうに思へることでも、何らかの理由があつて出会つた可能性がある。
その本当の理由はお互ひにしかとは分からないながらも、きつと何かの必然的な理由があつたに違ひないと、何となく(漠然と)信じる。
そんなふうに信じることで、この出会ひに一期一会の価値を持たせることができると感じる。
しかしそれをどこまで深く信じてゐるかは分かりません。
「縁」といふ言葉の起源は2500年前にお釈迦様が覚られた「縁起」です。
誰と誰が出会ふか。
私がどんな出来事に遭遇するか。
さういふことのすべては縁によつて起こるといふ覚りです。
「縁起がいい(あるいは、悪い)」
といふ日常的な慣用句もここから来てゐます。
「関係性」とか「因果律」などと言つてしまふと、その味はひが少し薄まつてしまふやうな気がします。
「かうだからかうなる」といふやうな時間的因果関係を「縁起」は超えてゐます。
「このことの原因は、これだらう」
と、ある程度までは推測が可能です。
3日前あるいは1年前のこのことが原因で、今かういふことになつてゐる。
さういふ時間的な流れの中である程度は推測できる。
しかし、本当にそれが原因なのか。
もつと他にもいろいろな原因があつて、それらが複雑に絡み合つて今の現象が出てきたとも思はれる。
お釈迦様でさへ「縁起の法」を覚ったと言はれても、
「このことは、そのことによつて起こつてゐる」
と具体的な縁のつながりが分かつたわけではないだらうと思ふ。
これはやはり、人間には絶対に分からない。
私も人生の年月を重ねて来るにつれ、
「人生に縁は確かにあると思ふけど、それがどんな縁かは分からないなあ」
といふ実感を深くします。
その時その時で、自分で決断したこともあるやうに思ふが、果たしてそれ以外の選択もできたのだらうか。
できたかもしれないが、実際にはその選択をせず、結局私の人生は実際に辿つてきた通りのただ一つの人生でしかない。
それを「失敗」だつたとか、「もつと賢明な選択もあつた」といふふうに思ひ返すこともできないではない。
しかしそれらを
「縁であつた」
と見做すこともできます。
諦めでもなく、自己正当化でもなく、人智で計れない大きな縁の中でのつながりであつた。
さう考へてみる。
悔いるよりも、縁を生かす道を探してみる。
お釈迦様も一国の王子であつたその境遇を捨てて、修行に身を投じられた。
さうしない選択も、もちろんあつたでせう。
しかしさうする選択は、お釈迦様の縁であつた。
その縁は、お釈迦様も明瞭には自覚しておられなかつた神様の意図の中にあつたのかも知れない。
「私の人生が縁によつて成り立つてゐることは確かだけれども、どのやうな縁かを知る縁(よすが)はない」
といふのがお釈迦様も覚りであつたやうにも思へます。

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