病気を見ないで自分を見る
すぐに解決しようとする者は、弱虫だ。病気を治さうとする者も、病気が来たら、『これを通じて神に栄光を返す道ではないか。この時は兄弟の苦しみ、歴史的な苦しみを味はおう。もつと病気にかかつて神の苦しみを任せてください』と言ふものは生きる。病気を治さうとする者は、病気に引つ掛かるのです。病気そのものを無視しなければならないのです。 (李耀翰[イ・ヨハン]牧師) |
『亡くなった人と話しませんか』
の著者サトミさんは、普通の人には見えないものが生まれつき見える人で、段々それを自覚して30歳を過ぎてカウンセラーになつた。
サトミさんのところには悩みを抱へた人が訪れ、相談を持ちかける。
難病を抱へた人がサトミさんに尋ねる質問は、大抵同じです。
「私の病気は治りますか?」
「この治療法でいいのでせうか?」
「私はいつまで生きられますか?」
このやうに質問する人は、病気だけを見てそれを治したいと願つてゐるのです。
本人は勿論深刻なのですが、サトミさんはさういふ質問にそのまま答へない。
「まづは病気になつた自分自身に目を向けてみてください。これまでの生き方がどうだつたのか、これからどう生きたいかを考へてみてください」
といふふうに促すのです。
先日の記事「解決法は自分が一番見たくない所にある」の流れでこの問題を考へてみます。
病気を抱へた人はその病気を解決しようとして質問する。
その質問が「病気が治るかどうか」「治療法が正しいか」「寿命はどれくらいか」といふやうなものになるのです。
しかしどうもその質問は、自分が見易い所に解決法を見つけようとする質問のやうな気がします。
そのやうな質問をする人はどうなるか。
李牧師は
「病気を治さうとする者は、病気に引つ掛かる」
と言はれる。
そして
「病気を本当に治さうとするなら、病気を無視せよ」
と言はれるのです。
この「病気を無視せよ」といふのが、言ひ方を換へれば、
「自分が一番見たくない所を見なさい」
といふことでせう。
病気は外に現れた現象です。
人はまづその現象に目を向けて、現象を消したいと思ふ。
その現象は見易いので、そこにまづ目が行くのです。
しかし、なぜその現象が現れたのか。
現象の原因に目を向けて、その原因をうまく清算しないと現象は消えない。
原因はあまり見たくないものなのです。
原因と言つても、そのレベルは一つではない。
例へば、体調がすぐれないので病院で診てもらふと
「血の巡りが悪いからでせう」
と言はれる。
それならもつと運動するか、食べ物を変へるかして対処する。
これは身体的、物質的なレベルの原因に対する対処です。
これはこれで必要なことです。
ところがもう少し深く考へてみると、血の巡りが悪いのは何か自分の心の中に閉じ込めてゐる思ひがあるのではないか、その巡りが悪いのではないか。
それでも、さういふ心の有様は、自分でもあまり見たくないのです。
これは精神的・心霊的なレベルの原因だと言へます。
アドラー流に言へば、何かの目的があつて心の巡りが悪いままに自分で設定してゐる。
それはほとんど無意識なので、病気といふ現象でそれを見せようとしてゐるのかも知れない。
見易いものを見ようとしてゐる相談者にサトミさんが
「自分の生き方を深く省みてください」
とアドバイスするのは、だから適切なアドバイスだらうと思ひます。
新型コロナ(武漢ウイルス)の拡大で日本でもいよいよ全国的な非常事態宣言が出されるに至つてゐます。
どんなウイルスなのか、どのやうに阻止するか、いつ頃までに終息するか、どれくらいの援助があるのかといふのが関心の大半のやうに見えます。
それも重要なことなので適切に把握対処しながら、同時に
「これまでの自分の生き方(生活の仕方、仕事の仕方、家族関係・人生観)を深く省みる」
といふあまり見たくない所に目を向けるチャンスでもあるだらうと思ひます。

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