他人があつて自分があり、自分があつて他人がある
この(一神教の)神が出てくると、それと一緒に、自分という実体的なものもはっきり出てきます。そうすると、あらゆるものを考えていくときに、はっきりとした自分とはっきりとした神との関係が主軸になってくるわけですね。 そして、信仰というのは神の意志に従うことだと、自分の意思を主張するんじゃなくて神の意に従うという、それが信仰だと考えます。しかし、その場合には神の意に従う自分の意志というものが最後まで残らざるを得ない。 信仰は自己中心性を破る立場なんだけれども、そのこと自身が意志的に考えられている。このことが今、ヨーロッパ人が一番苦しんでいることなんですね。 (『君自身に還れ』池田晶子・大峯顯) |
浄土真宗の僧侶でもある哲学者大峯さんが、仏教の観点から西洋的なキリスト教を見て、
「神の意志に従ふといふ自己中心性が最後まで残つてしまふ」
といふことを気にかけてゐる発言です。
これは歴史学者のトインビーも言つてゐることで、
「ヨーロッパ文明の特徴はセルフセンタードネス(自己中心性)だ」
と言ふのです。
それなら人類の将来にどんな希望があるか。
仏教で言ふ「菩薩の考へ」。
「他人のために自分を捨てる」
「自分が先に仏になるのではなく、一切の衆生を仏にした時に初めて自分が仏になる」
かういふ精神がこれからの世界において人間の精神の新しいかたちになるなら希望がある。
これがトインビーの結論です。
キリスト教の創造論なら、まづ神がおられて、その対象として自分が存在する。
神が先にあつて、自分がゐる。
さういふ固定的な主体対象の関係がある。
それに対して仏教の「縁起」は、
「他人があつて自分があり、自分があつて他人がある」
と考へる。
キリスト教がピラミッド的なコスモロジーだとすれば、仏教ではこの世は無限大の網の目だと考へる。
特定の中心がないのです。
人間の体に譬へれば、脳(神)が中心となつて神経系統(キリストと教会)を通じて四肢五体(信徒)に命令を伝達するといふのがキリスト教。
それに対して仏教的に考へると、体のあらゆる器官(信徒)がそれぞれに最適な解を考へて、必要なものをお互ひに要求したり供給したりする。
(実際そのやうな科学的な知見も出てきてゐます。「インターネット臓器」)
一つ一つの臓器が
「他臓器があつて自分があり、自分があつて他臓器がある」
といふ考へのもとに連携し合つてゐるといふ真実はありさうに思へます。
もちろん脳の役割が不要だといふわけではない。
それはやはり中心的な役割を果たしてゐるでせう。
しかし脳とその他の器官とは固定した主従関係ではない。
それぞれの器官が
「私は体全体のために働いてゐる。体全体が喜んでくれたら、私も嬉しい」
と主体的に考へながら機能してゐる。
私がこの世の中の一つの器官ならば、脳(神)はどこか自分の外にあるのではない。
脳(神)は自分の中にゐる。
その脳(神)の命令ならざる命令によつて、自分は機能してゐる。
かういふ感覚は、宗教の中の「神秘主義」と言つてもいいのではないでせうか。
キリスト教の歴史の中にも多くの神秘主義者が出てゐます。
中世以前にもあるし、宗教改革後にも敬虔主義(Pietism)やクェーカー派などが出てきます。
イスラム教でもスーフィズムといふやうな神秘主義があります。
かういふ神秘主義といふのは、人間本性の自然的な現れのやうな気がします。
神を単に教条的、論理的に理解して信じるだけでは満足できないのです。
神は自分の外のどこかにおられるのではない。
正に自分のただ中におられて、常に命令ならざる命令をしておられる。
まさに
「神がおられて自分がおり、自分がゐて神がおられる」
といふ感覚です。
この感覚は前の記事でも触れた
「空即是色」
に通じるし、
「他人のために自分を捨てる」
といふ菩薩の心にも通じるでせう。
文鮮明総裁が言はれる
「相対絶対主義」
とも通じます。

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