無限の解放空間
だから西田(幾多郎)から言ったら、世人は自力というものを誤解していると言うんです。自分が自力で自分を知るなんていうことはほんとうはないんだ。 道元(禅師)だって人間から仏のほうに行くのは迷いだと『正法眼蔵』に書いていますね。覚りとは、仏のほうがこちらに現れてくるという経験なんであって、これはふつうの意味の仏と自分との連続的な対応関係じゃないんですよ。 (『君自身に還れ』池田晶子・大峯顯) |
これは対談の中の大峯さんの発言です。
仏と人間とが会ふことができるとすれば、仏のはうから人間に来られるのであつて、人間のはうから仏に行く対応の道はないといふのです。
これを大峯さんは「逆対応」と呼んでゐます。
ここで「仏」と言はれてゐるのは、個別のお釈迦様でもなく阿弥陀様でもない。
謂はば「仏心」とでも言ふべき、普通に言ふ「実体」のないものです。
人間のはうから仏に近づいていくといふのは駱駝が針の穴を通るやうなものであつて、だからそれが可能だと考へることを道元禅師は「迷ひ」だと言ふわけです。
大峯さんは浄土真宗の住職であると同時に哲学者でもあるから、逆対応で人間と仏が会ふその根本には「仏の自己否定」があるといふふうに表現する。
そしてその会ひ方を、
「仏(絶対者)が人間(有限者)を包み込む」
といふふうにも言ふのです。
さういふふうに会つて初めて、人間は自分が一体何者であるかをその根源から知るやうになる。
浄土真宗は「他力」の信仰だからそんなふうに言へるとしても、普通に「自力」信仰だと考へられてゐる禅宗はどうか。
道元禅師もやはり同じ考へなのです。
自分で覚りを求めると言つても、
「人間から仏のはうに行く(と考へる)のは迷ひだ」
と、経験的に断言するのです。
それで哲学者西田幾多郎は
「自力と他力は究極的には手を握り合ふことができる」
と言ふ。
有名な
「空即是色」
といふ仏教思想があります。
この「空(くう)」はもともと日常経験の中で目に見える空(そら)のことを指してゐたと言ふ。
空(そら)は鳥も雲も全部包み込んでゐる。
空(そら)にぶつかつて怪我をする鳥はゐない。
あらゆるものを入れて、お前は入れないといふことがない。
かういふ空(そら)を
「無限の解放空間」
と大峯さんは言ひ、空(そら)になぜこんなことが可能かと言へば、空(そら)が自分を否定してからつぽにしてゐるからだと言ふのです。
自己否定してからつぽになつた空(そら)の中にすべてのものが存在し成り立つてゐる。
これを
「空即是色」
と解してゐます。
以上の話はとても示唆的なのですが、哲学的な色合ひがあつて実感しにくい。
もう少し日常的な話にしてみませう。
私たちが日常生活の中でさまざまな問題に遭遇するとき、
「なぜ、こんなことが私に起こるのだらう?」
「どのやうに対処したらいいのだらう?」
と考へるものです。
その考へるときに、自分の頭で考へるだけでなく、自分を空(くう)の中に置いてみる。
空(くう)がすでに自己否定してくれてゐるので、自分自身(色)も自己否定するのです。
すると空即是色なのだから、空の中から、あるいは仏心のはうから私(色)に知らせてくれるものがないだらうか。
「覚り」とまでは言はなくても、「日常の気づき」の中にも本当はいろいろな知らせがあるのではないかと思ふのです。
有意義な気づきといふのは、自分からといふより、やはりどこかからやつて来るといふ感じがあります。
知らせてくれるのは仏心と言つてもいいし、神様と言つてもいい。
仏心も神様も自己否定してゐる存在です。
そして万物も人間もそのすべてを「包み込んで」くれる。
文総裁が
「神様は絶対服従の方であり、絶対愛の方である」
と言はれたのも、そのことではないかと思へます。

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