まだまだ、理性の人です
ああ、なるほどねぇ…。 修羅というような人間を見るにつけ、私は哲学の限界を感じるんです。こういう修羅の出現を見ると、哲学と言うか理性の限界を感じてしまう。 理性によっては、これ(修羅の人間・編者注)が何者かが認識できないんです。 (『君自身に還れ』池田晶子・大峯顯) |
これは2人の対談における池田さんの発言です。
哲学者にして浄土真宗の僧侶でもある大峯さんと哲学、宗教、救いなどに亘るテーマが展開する中で、哲学者池田さんからこの告白が出てきます。
修羅といふのは仏教の概念です。
仏教では衆生生存の可能性として、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天といふ六道の概念をもつてゐる。
その中で修羅といふのは、闘争が好きで、闘争以外の何ものないといふ世界です。
闘争することが悪いこととは思つてゐない。
現実に人を殺すことを悪いと感じられないといふやうな人が出てくる。
かういふ人を「修羅の人」と呼ぶわけです。
ところが理性はさういふ人の正体を認識できないと池田さんは言ふ。
哲学は理性を土台として構築する。
理性は
「人を殺すことは悪いことだ」
といふことをプライオリに知つてゐる。
ところが修羅の人にはこの理性が通じないのです。
だから理性は修羅の人を認識できない。
従つて、理性では修羅の人を救へない。
多分、理性が通じるのは六道の内で上位の2層だけでせう。
しかし阿弥陀様は一切衆生を救ふと発願なさつたといふのですから、六道の下位4世界の人間まで視野に入れて救はなければならない。
当然、理性の力で救ふことはできません。
「人を殺すことは良くないことですよ」
「人には肉体だけでなく霊がありますよ」
と言つても通じない。
理性の考へる「善・悪」ではすべての人を救へない。
理性は善だけを取つて、悪は捨てるしかない。
ところが、仏の考へる「善・悪」は理性の考へる「善・悪」を超えてゐる。
理性が考へる「悪」であつたとしても、その悪人を捨てることができないのです。
大峯さんが言ふには、理性が言ふ「善」は「善」であることに執着した「善」である。
純粋な「善」ではないといふのです。
執着があれば、
「あれだけ善くしてあげたのに、なぜそれに応えてくれないのか」
といふ責める思ひが湧く可能性があります。
ところが仏には
「自分が善いことをした」
といふ意識そのものがない。
「私が十方衆生を救ふのは善いことだ」
といふ自己執着が微塵もない。
文鮮明総裁も
「善悪を併せ呑むのがジャルジン精神だ」
と言はれたことがあります。
私にこの執着がないかと言へば、ある。
仏には程遠い、まだまだ理性の人です。

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