ロゴスが私を透過してゆく
変な言い方なのですが、私の言葉はある種のロゴスに乗っ取られているという自覚はあるんですね。私の書いている言葉は、ロゴスです。 ロゴスに向かって言葉を紡ぎ出していくというか、ロゴスが私を透過してゆくといった感覚でいつも書くんですけれど、これが普通の人には通じないですね。 (『君自身に還れ』池田晶子×大峯顯) |
これは池田さんの発言です。
私は池田さんの本をだいぶ読んできたのですが、これほど直截に
「自分の言葉はロゴスです」
と言ひ切つてゐる文章に出会つた記憶がありません。
読んでみて、
「ここまで言へるか。やはりこの人、並みの自信ではない」
といふ衝撃を受けました。
彼女はそのエッセイの中で繰り返し「意見」と「言論(ロゴス)」とを峻別してゐます。
意見といふのは「自分の考へ」です。
「この問題について、私はかう考へる」
と言つて述べるのが意見です。
それに対して言論(ロゴス)といふのは「自分の考へではない」。
かと言つて誰か他人の意見といふわけでもない。
ロゴスといふ何者かが自分を通して考へ、語る。
その時その考へは
「どう考へたつて、さう考へざるを得ない。誰が考へても、きちんと考へれば、かういふ考へに至るしかない」
と確信的に思へる。
ところが不思議なことに(といふか当然のことに)それが普通の人にはなかなか通じない。
「そんなのは唯我独尊、思ひ上がり、傲慢ではないか」
との誹りを免れないやうな気もします。
しかしここで改めて
「私が正しく考へるとはどういふことか」
と考へてみませう。
『ガイアの法則
「思念というものは、心が空白でありさえすれば、必ず各人に最も必要なものが与えられるようにできている。自ら作り上げるものではないことを、あなた方は知らねばならない」
思念(考へる)とは自分の頭の中から捻り出すものではない。
考へようとする人がすべきことは、心(頭)の中を空つぽにすることです。
空つぽになれば、その空白の空間に必要な思念が神から与へられる。
ある意味では、自分の頭で考へない。
頭の中をどこまで空つぽにできるか。
それが肝要なポイントです。
このやうにして本当に思念が与へられたとすれば、
「この思念は間違ひない」
といふ確信が伴ふ。
多くの人が考へるとき、大抵は過去に得た知識や体験に基づいて考へを構築するものです。
本人にとつてはその考へが正しいといふ気がするでせうが、その保証はない。
もとよりその思念が頭の中から出たものか、神から与へられたものか、見分けるのは容易でないでせう。
しかしおそらくは、ある一定の時間を置いてその思念が及ぼす影響を見ることで判断がつくのではないか。
シュメールの神官はこんなふうに言ひます。
「与えられた思念である以上、それは必ず宇宙のリズムに合致する。(一方)自ら作り上げた思念によっても物事は成就できる。しかしそれらは、長期的には宇宙のリズムを壊す」

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