本当の言論(ロゴス)
ソクラテス 「これが掌であることを私は断じて許さない」と叫んでも、これが掌であることに全然変わりはないね。 両者 ええ。 ソクラテス 君たちのしていることは、それと同じなんだよ。既にそうである現実について、俺は認める認めないと騒いでみても、現実の側は痛くも痒くもない。言うのは勝手さ。でも全然無意味なんだ。こういう無力な言辞は意見と言って、決して言論(ロゴス)とは言わないんだ。 両者 よくわかりませんが。 ソクラテス 君たちは、現実や時代を構成するのは人間の考えだということは認めてくれたようだが、自分のどこか外に、それを肯定したり否定したりすることのできる現実や時代があるわけではないということは、まだ認められないらしいね。 ........... ソクラテス 時代を生きている君たちが、時代を変えることを望むのなら、まず自分の考えを変える以外ないじゃないか。それがたくさんの人に理解されて、時代の考えになり変わる以外に方法なんかないじゃないか。 (『帰ってきたソクラテス』池田晶子) |
ここに登場するソクラテスは文字通り二千数百年を経て現代に蘇つた池田ソクラテス。
「両者」とは彼と(架空の)議論を戦はせるジャーナリストと評論家です。
従来のメディアだけでなく新興ネットメディアまで登場して無数の情報が飛び交ふ今日。
私も「無力な意見」ではなく「本当の言論(ロゴス)」がほしいと思ひ、かつ自分自身もできるならば後者を発信したいと願つてゐます。
しかしこれがなかなか容易ではないと感じるのです。
「無力な意見」と「本当の言論」とは、何がどう違ふのか。
それを池田ソクラテスの説明に沿つて考へてみませう。
「無力な意見」といふのは、
「現実や時代が自分の外にあると思つて為す言葉」
です。
それに対して「本当の言論」といふのは、
「現実や時代が自分の中にしかないと分かつて、まづ自分の考へを変へた上で為す言葉」
です。
少し具体的に考へてみます。
政権を担ふ構成員の中に何か法律に抵触するやうな不正が発覚したとする。
すぐさま、野党、メディア、評論家などが取材、分析、論評などを展開するでせう。
しかしその不正が自分の外にあると思つて為す言葉であれば、それらはみな「無力な意見」に過ぎない。
「法を犯した彼が悪い」
「悪いのは権力を持つた奴らだ」
「彼らの首を挿げ替へない限り、我が国は良くならない」
そんなことをいくら言ひ募つても、「現実の側は痛くも痒くもない」。
だからそれは「無力な意見」なのです。
それに対して「本当の言論」ならどういふ言葉を為すのでせうか。
問題の不正が言論を為す人の外にあるのではなく、その人自身の中にあると考へるなら、単純に
「法を犯した彼が悪い、彼を追及せよ」
とは言へない。
「私は法といふものに対してどのやうに振る舞ふ人間であらうとするのか」
「この国が良くなるために、私はどのやうな人間であらうとするのか」
このやうな言葉を為すならどうでせう。
言葉を為すだけでなく、その言葉通りに行動するならどうでせう。
現実も時代も自分の中にあると考へる人にとつて、あらゆる問題はとても内面的なものとなります。
そして池田ソクラテスは、どんな問題であれ、それを解決する道筋は自分の内面から始まるしかないと考へてゐるやうです。
その時にのみ、「本当の言論」が生まれ得る。

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