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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

主体者の情を経て生きる

2020/03/22
訓読日記 0
20200322

堕落した世の中で、
「あなたの家で誰が中心ですか?」
と尋ねるならば、しばらく考えたのちに、
「夫だ」
と言いますが、実際の生活では夫人は夫人の思いのままに生きており、自分勝手にしています。

夫婦というものは、情がすべて経由されなければなりません。
つまり、主体者の情を経て生きるのが、本物の原理的な夫婦なのです。
うれしいとか寂しいとかいうのも、一つのコースを経由しなければなりません。
(「心の秩序生活」李耀翰牧師)


「すべての情は一つのコースを経由しなければならない」
といふ表現は独特ですが、非常に鋭いものです。

李牧師は夫婦の関係で教へておられますが、これは他のどんな人間関係でも同じでせうし、元をたどれば、人間と神様の関係に由来することだと思はれます。

人間関係で私が対象の立場であれ主体の立場であれ、私がうれしいといふ情も寂しいといふ情も、自分だけで感じて処理してはいけないといふことです。

「私」といふのは一点では、広がりがない。
「私」から出発して、「あなた」を経て、もう一度「私」に戻つてくる。
かういふ流れがあるのが本来の情であり、また深みを増すもののやうです。

何か良いことがあつて「うれしい」といふ感情が湧いてくれば、
「私はかういふことがあつてうれしいのですが、あなたもうれしいですか?」
と尋ねてみて、主体者も
「うれしい」
と答へれば、そのときに初めて喜ぶ。

これは感情に限らないでせう。

何かやつてみたいことがあれば、
「かういふことをやつてみたいのですが、どうでせう?」
と主体者に相談してみる。

結局、アダムとエバのところまで戻つていきます。
「天使長がこんなふうに近づいてくるのですが、神様、どうでせう?」
「エバの様子が今までと違つて変な気がするのですが、神様、どうでせう?」
と相談してみればよかつたのに、2人ともなぜか相談しなかつたのです。
2人とも、神様といふ主体者を経るといふコースを辿らなかつたのです。

相談するといふのは、すごいことだと思ひます。

私が
「かうしたいのですが、どうですか?」
と相談すれば、神様は絶対に答へなければならないはずです。

「私はうつかり聞き逃した」
とは、全知全能の神様は言へないのです。

神様は、必ず私に答へ、私のやらうとすることに責任を持たなければならなくなります。

善悪の実を取つて食べ、木の陰に隠れたアダムに、
「お前は取つて食べたのか?」
と神様が尋ねられたのは、アダムがその本性で、
「さうです。私の責任で食べました。神様、どうすればいいでせうか?」
と相談してくれるのを願つてのことでせう。

相談すれば、神様は必ず答へなければならない。
答えてやりたいと思つて、尋ねられるのです。

振り返つてみると、神様に相談することがあまりに少ない自分を発見します。
どこへ行く、何を食べる、どんな話をする ...
そんな日常のあらゆることを、ほとんど自分で判断し、実行してゐるのです。

もう少し厳密に考へれば、神様に相談する前に私の良心に相談する。
私の内面でまづ、一つのコースを経なければならないと思ひます。

これをしないのが「私心」です。

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