「観」のない世界
体はその終わりがあります。しかし心は終わりがありません。ですから、心の世界は何かの観がありません。宇宙観とか何かというものがないのです。 さらには、心よりもっと大きいものは心情の世界です。心情の世界においてもやはり同じです。心情の世界は制限も受けません。心の世界は制限を受けます。心は相対的な条件いかんによって制限を受けますが、心情の世界は制限する者がいないのです。 (『世界経典』462) |
ここで文鮮明先生は3つの世界について語つておられます。
① 体の世界
② 心の世界
③ 心情の世界
第1の体の世界は終はりがある世界です。
この世界には「世界観」とか「宇宙観」あるいは「人生観」などと言つた「観」がある。
といふことは、「観」には終はりがあるといふことです。
「観」自体が「有限」だと言つてもいいでせうか。
「観」と言ふと何だか偉さうな響きがあります。
しかしそんなものは所詮この世に生きてゐる間だけのもので、大したことはない。
「私はこれこれかういふ人生観を持つて生きてゐる」
と言つたとしても、それは狭い範囲の考へです。
「観」は「主義」と言つてもいいでせう。
一つの「観(主義)」を持つてしまふことで、却つてその「観(主義)」の中に入りきらない多くのものを排除してゐる。
だから「観(主義)」を持つ人同士が闘ふのです。
「神主義」と「唯物主義」が闘ふ。
「グローバリズム(地球主義)」と「ナショナリズム(国家主義)」が闘ふ。
「主流派」と「分派」が闘ふ。
「夫主義」と「妻主義」が闘ふ。
これは「肉心」の作用であり、肉心の限界だとも思へます。
我々はまづはこの体の世界を超えて、心の世界に生きる者にならう。
心の世界には終はりがなく、従つて特定の「観」や「主義」がない。
体の世界よりづつと自由です。
「私の主義に合はないから、あなたとは話さない」
とは言はない。
しかし心の世界に闘ひがないかといふと、さうでもない。
心は相対的な条件によつて制限を受ける。
相手が自分より強いか弱いか。
相手が自分を好んでゐるか憎んでゐるか。
さういふ条件によつて、心は積極的になつたり消極的になつたりする。
褒められると嬉しくなり、貶されると落ち込む。
イエス様が
「神の国はあなたの心のただ中にある」
と言はれたとき、その「心」とは実は「心情」のことです。
心情は心と違つて、いかなる制限も受けない。
心情は対象を愛することを通して喜びを得ようとする情的な衝動なので、それを制限するいかなるものも存在しないのです。
相手の喜びを通して自分が喜ぶことだけを思ふ。
率直に言つて「心の世界」と「心情の世界」の違ひは、私にとつて十分に分明とは言へません。
ただ、「体の世界の住人」から「心の世界の住人」に変はりたいとは思ふのです。

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