断捨離させようとしないでください
ダンシャリアンにして心理療法家、川畑のぶこさんのメルマガにこんな記事があります。
断捨離の実践者の多くから寄せられる質問がある。
「母に断捨離をさせたいが、抵抗が強くてうまくいかない。どうすればいいだらうか」
といふものです。
これに対して、川畑さんはかう答へる。
「断舎離させようとしないことです」
川畑さんはこれまで自分の母に断舎離させようとしたことも、させようと思つたこともないといふ。
なぜかといふと、相手に何かをやらせるとか分からせるということに価値を見出さないからです。
やらせるとか分からせるという姿勢に中には、
「自分が正しくて、相手は間違つてゐる。だから私の考へで相手を変へよう」
といふ信念が潜んでゐます。
「あなたが物を捨てられないのは間違つてゐる。考へ方を変へなさい。断舎離したらあなたの生活は大きく変はるよ」
この言葉の中には、相手のことを思つてのやうに見せながら、その実、相手を非難する響きが感じられないでせうか。
非難されれば、人は必ず抵抗する。
これは私も実験済みです。
川畑氏はどうしたのでせうか。
断捨離には一切誘はず、自分の断捨離体験をひたすら共有したといふのです。
断捨離をして楽しかつたこと。
いろいろな気づきがあつたこと。
反対に、大変だつたこと、しくじつたこと・・・
ここには、お母さんへの責めも強制もありません。
お母さんは娘の正直な話を聞きながら、その内、自分の片づかない理由や苦労話をし始めた。
お母さんもやはり悩んでゐたのです。
しかしそれを言ひ訳と考へて対応してはいけない。
それは苦労を分かつてほしいといふ欲求の現れです。
だから、
「さうだよね。分かる分かる。私もさうよ」
とひたすら傾聴し、共感する。
「私のニーズ」をお母さんに強要するのではなく、「お母さんのニーズ」を私が満たしてあげようとするのです。
お母さんは片付けるための説得がほしいのではなく、自分の大変さを分かつてほしいのです。
そのお母さんのニーズを満たしてあげると、お母さんは次第に心を開き始める。
「片付けなきや、片付けなきやと、分かってはゐるんだけどねぇ。なかなかできなくてねぇ」
と告白し始めるのです。
ところが、そこですぐに、
「ぢやあ、断捨離しよう!」
と畳み掛けてはいけない。
「いや、むしろ無理に捨てなくていいんぢやない? お母さんの時代は物がなくて育つたんだから、捨てられないのも当然よね」
と、お母さんを肯定してあげる。
ここでお母さんの心はさらに大きく開いたのかも知れない。
次に会つた時には、お母さんは自ら断捨離セミナーに参加したいと言つてきたのです。
その後、お母さんは断捨離を肯定的に学び、今では風通しの良い家で快適に暮らしてゐると言ひます。
「人を思ひ通りに操りたいのであれば、その執着を捨てるが吉」
といふのが川畑氏の結論です。
つまり断捨離とは、まづ自分自身の執着を捨てること。
「自分が正しい」といふ執着。
「自分の思ひ通りに相手を変へよう」といふ執着。
思へば、この執着の断捨離こそ断捨離の第一歩であり、要諦ではないだらうか。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
手放しなさい 2009/12/15
-
「壁」も実はありがたい 2011/05/21
-
僕は親切で温かい人の心に触れたよ 2011/08/10
-
「旧かな」擁護論 2021/12/31
-
スポンサーサイト