究極のリアル
リアリティーという言葉の意味を、私は以前から問題にしてきた。辞書的にはこの言葉は「現実」「現実性」「実在」などと訳されている。 しかし私はこれをむしろ「真善美」などと訳すべきではないかと書いたことがある。 (『養老孟司の大言論3』32) |
「リアル」といふ英語は今やほとんど日本語となつてゐる。
その日常的な語感は、目に見え、手で触れ、間違ひなく今ここに存在する、といふ感じです。
絵画が「リアル」といふ場合は、
「限りなく本物のやうに見える」
といふ意味でせう。
ところが養老先生はこれを
「真善美」
と訳すはうが相応しいと仰る。
なぜかと言へば、例へば
「ultimate reality(究極のリアリティー)」
とは「神」と同義なのです。
日常的な感覚から言へば、今目の前に見えるバラこそがリアリティーなのであつて、目に見えず触れもしない「神」は一種の抽象概念のやうに思はれます。
養老先生が推す「真善美」といふ訳語も、同様にまつたく抽象概念と思はれる。
ところが、実のところ「神」や「真善美」こそが本当のリアリティーであつて、目の前のバラはリアリティーではない。
日常的感覚とはまつたく真逆なのですが、どうもこの真逆な見方のはうこそより真実に近いのではないか。
今日庭の生け垣を剪定しながら、ふとそのことに合点がいつた気がしたのです。
尤も、それを言葉で説明しようとすると難しい。
難しいので、体験をそのまま書いてみませう。
剪定しながら
「今日といふ日に庭の手入れをしてゐるのは、一体なんだらう。これはリアルだらうか」
などと考へてゐると、
「私は超運がいいなあ。私が〇〇家に生まれたことも運がいいし、私が〇〇さんと結婚したことも運がいいし、息子と娘が私の子どもであるのも運がいい。おばあちゃんが年を取つて認知症になつたのも超運がいい」
といふ思ひがしきりに湧いてくるのです。
○○家は平凡で何ら特別な取柄もありさうには思へない。
妻は42歳の若い身空で聖和した。
子どもたちについてもおばあちゃんについても、思ふやうにならないことは多い。
しかしこのすべてが、私にとつては超ついてゐた。
その理由を分かるやうに説明せよと言はれれば、言葉に詰まる。
理由も分からずに、たださう思はれるのです。
「もつとかうだつたら良かつたのに」
「自分が願ふ通りに物事が運べばいいのに」
などと思ひ患ふのが日常の現実(リアル)なのですが、本当はこれはリアルではない。
本当のリアルは神様がultimate realityとして実在されることであり、私はその方から生まれ出てきたといふことです。
それゆゑに私は私といふ存在自体が超運がいいとしか考へられない。
リアルはそれしかない。
だから今の目の前がどんなに不遇で思ひ通りでないやうに見えても、これらはすべて抽象であり幻だ。
その幻をリアルだと思つて暮らすので、
「私はついてゐない、運が悪い」
と思ひ込んでしまふのです。

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