fc2ブログ
まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

私の心の中に許容します

2020/03/15
原理を学ぶ 0
20200315 

2016年12月14日の記事「邪悪な要素を受け入れよ」の再録です。
3年前から努力してゐることですが、簡単ではありません。

ーー ここから再録 ーー

「あなた自身を愛するやうに、あなたの隣人を愛しなさい」
といふイエス様の教へがあります。

前半が後半の指示の前提になつてゐます。
自分を愛すると同じその方法で隣人をも愛せといふのです。
ならば、その同じ方法とは、どんな方法なのでせうか。

そのことを考へながら床に着いたら、今朝起きがけに、
「愛するとは、『受け入れる』ことから」
といふ思いがやつてきたのです。

自分を愛するには、自分を受け入れることから。
隣人を愛するには、隣人を受け入れることから。

といふことになります。

「私は自分自身をどれくらゐ受け入れているだらうか?」
と自問すると、自分のあらゆるところを受け入れてはゐない。
嫌ひな部分、情けない部分、さういふ受け入れられない部分が相当ある。

「私は隣人である家族を、妻を、子どもたちを、どれくらゐ受け入れてゐるだらうか?」
さう考へると、受け入れることができてゐない隣人も多いなと思ふ。

「妻の、あの時の一言、あの態度は受け入れることができない」
といふ思ひが20年たつても消えずに残つてゐる。

受け入れないといふことは、私の意識の外へその人を除外することです。
そしてそれは、その人を愛せないといふことです。
この心理的なメカニズムは、隣人でも自分自身でも同様だと思へます。

自分の嫌な部分は受け入れられないので、見ないやうにする。
意識の外へ除外しようとする。

それは、
「自分のありのままの姿は、かういふ自分だ」
といふことを受け入れられない、認められないといふことです。

信仰の道に入ると、
「自己否定」
といふ言葉を聞くやうになります。

これは、自分の中の邪悪な要素、罪や堕落性を否定せよ、と言つてゐるやうにも思へますが、案外、
「その邪悪な要素を受け入れよ」
といふことかも知れない。

なぜかといふと、受け入れず、意識の外へ除外してしまふと、その要素を取り扱ふことができないからです。
取り扱へなければ、直すこともできないのです。

「私は、かういふ人間だ」
と、善も悪も入り混じつた自分自身を、まず受け入れる。
その上で、悪なる部分に対処する。

これは、隣人も原理は同じです。
「この人のかういふところは嫌だ」
と言つて、私の意識の外に除外しない。
先づは、その隣人のすべてを受け入れる。

妻の態度が気に食はなくても、受け入れる。
子どもの行動が私の倫理枠を外れていても、まずは受け入れる。

すると問題は、受け入れた後、許せない要素にどう対処するかです。
この段階で、私も試行錯誤してゐます。

受け入れようとすると、相当強力な抵抗感が生じる。
それでも受け入れる努力をすると、まず、心の枠が少しづつ広がつていくのです。

以前は、
「原理はかうなつてゐる」
と言つて、それから外れて見えるものには嫌悪感を覚え、受け入れることもできなかつたのが、
「しかし、現実は現実だ」
と思ふやうになる。

もちろんそれだけでは現実に押されるばかりで、無限後退してしまふしかない。
ただ、嫌な要素を持つた隣人も私の心の中に入つてくることで、その人への私の感情や態度が少しづつ変はつてくるのを感じるのです。
除外するだけでは永遠に対立と分離しかないのですが、受け入れることで、少なくとも和合できる可能性が出てくるのです。

「あなたのその態度を受け入れることのできない私を許し、あなたを私の心の中に住まはせます」
「あなたのそのままを何も裁かず、私の心の中に許容します」

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



Comments 0

There are no comments yet.