口を閉じてみる
口を閉じてみる。それだけでどれだけ、この世が静まるか。 自分が口を閉じても、まわりがうるさいって? それもぜんぶ記憶の声なんだ。 (『Aloha』平良アイリーン著) |
私の口から出る言葉が「記憶」から出る声なら、世の中をうるさくしてゐるに過ぎないといふのです。
「記憶」によらない声なら、出しても価値があるかも知れない。
しかし「記憶の声」なら、「うるさい鉢」のやうなものだから口はつぐむに限る。
しかし私が口を閉じてもなお周りはうるさい。
周辺には「うるさい鉢」は無数にあるので、世の中はなほ喧騒に満ちてゐる。
どうしたらいいのでせうか。
口をつぐみ、耳を塞ぐ。
当座はそれでも凌げさうですが、根本解決にはならない。
そんなことを思ひながら朝一番に愛犬の散歩に出ると、ラッキーの様子がいつもと違ふ。
庭から私道へ出て表通りまで引つ張つていくのが常なのに、今朝は家の裏を廻つて畑のはうに引つ張つて行くのです。
どこまで行くのかと思つて引かれるままについて行くと、畑の行き詰まりの墓まで一気に行く。
「すぐ近くの割には、墓に来るのも久しぶりだな」
と思つてぼんやり墓を見廻してゐると、はつと気づいたことがある。
静かなのです。

墓は何も主張してゐないので、佇立してまつたくうるさくない。
「墓はどうしてこんなに佇まいが静かなんだらう」
と思ひながら横を見ると、椿の花がいくつも咲いてゐる。
花はどれも盛りを過ぎて変色しかけてゐます。
その椿を見ても、これまたとても静かです。

「自然はこんなに静かだつたのか」
と改めて気づき、静かな理由を考へてみる。
どうやら彼らは「記憶」によつて声を発してゐないのです。
だからとても静かで落ち着いてゐる。
うるさいのは、どうも人間だけかも知れない。
自分もうるさく、周りもうるさいといふが、本当は周りがうるさいのではない。
まわりがうるさいと感じるのは、自分自身が「記憶」によつて周りの声を聞いてゐるからではないか。
「この人の言ふことは賛成だが、あの人の言ふことはおかしい」
といふふうに、すべて自分の「記憶」といふフィルターを通して聞いてゐるので、すべてがうるさいのです。
自分が「記憶」から解放されれば、この世はづつと静かになりさうです。
ラッキーは来客があると声高に吠えてうるさいことがあるのですが、今朝は墓が静かであることを私に教へるために引つ張つて行つてくれたのだらうか。
彼も「記憶」で聞いてゐない。
偉いものだなと思ふ。

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