あなた自身のために祈ればよかつた
ーー ここから再録 ーー
スペインのバレンシアで開いたセミナーに一人のアメリカ人女性が参加しました。 「私の孫がガンに罹ってしまいました」 休憩の時、彼女は私にそう言ってすがってきたのです。 「私は祈りました。この子を死なせないでって。なのに死んでしまった。どうしてなんですか?」 (『ハワイの秘法』254) |
このような切実な質問を受けたとすれば、そのとき何と答へればいいのでせうか。
「何とか助けてほしい。死なないでほしい」
多くの人は、身近な人の最期の姿を見ながら、心の中で繰り返すでせう。
神様を信じないとしても、何かにすがりたい気持ちになる。
この質問に対して、セミナーの教師はかう答へたのです。
「あなたは間違つた人のために祈つたのです。あなた自身のために祈ればよかつた。お孫さんが倒れたといふあなたの体験によつて、あなたの中に起きてゐたことの許しを求めてね」
これはちよつと、思ひがけない答へです。
質問した婦人の思ひはこんなふうだと推測できます。
「大変な問題を抱へてゐるのは、孫である」
「私にはこの子を助ける力がないから、神様に力を貸していただきたい」
「私がこれほど切実に願へば、神様はきつと聞いてくださるに違ひない」
これは、神を信じる人の普通の思考回路でせう。
ところが、その願ひは空しく、孫は回復できないまま亡くなつた。
「私の願ひが足りなかつたのか? それとも神様の力が足りなかつたのか? あるいはもつと他に何かの理由があるのか?」
この疑問を晴らしたかつたのです。
それに対して、教師はまずかう言つたのです。
「問題を抱へてゐたのは、お孫さんではなく、あなたご自身だつたのです」
だから、あなた自身のために祈ればよかつた、と言つた。
自分には孫の病気を治せるような力はない。
だから、力があると信じる神に祈るのです。
自分のために祈つて、一体何になるのか。
そもそも、自分が一体どんな問題を抱へてゐたといふのか。
後で、その教師はかう述懐してゐます。
「人は自分自身を、自分の体験の源だと理解しない。祈りが、懇願者によつて懇願者の中で起きてゐることに向けられることなど、滅多にない」
ここで言ふ「人」とは、質問を投げかけた婦人です。
その婦人が、自分の孫がガンに罹り、目の前で次第に重篤になつていくといふ体験をしてゐる。
婦人の外側では孫が病気に罹つて苦しんでゐるのですが、その孫を見ながら居ても立つても居られないといふ体験は、婦人の内面で起こつてゐる。
これが、
「自分自身が自分の体験の源」
といふ意味です。
教師は、
「祈りの焦点を、苦しんでゐる孫に向けず、その苦しんでゐる孫を見ながら無力感に苦しんでゐる自分(婦人)自身(体験の源)に向けるべきだつた」
と言つてゐるのです。
「なぜ、いま私は孫が死にさうなのに何もしてやれないといふ辛い体験をしてゐるのだらう。自分の中にどんな問題があつて、私は今こんな体験をさせられてゐるのだらう」
そのやうに祈る。
そして、
「私の中に、孫がそのやうになつてしまふ何らかの原因があるので、私が今このやうな体験をしてゐるのだとすれば、私の中の原因について謝罪します。許してください」
と祈る。
その原因がどんなものなのか、それは分からないし、分からなくてもいい。
分からないままに許しを請ふのです。
この祈りと、実際に婦人がした祈りと、何が違ふのでしょうか。
婦人がした祈りにおいて、婦人は問題が自分の「外側」にあると考へてゐます。
自分には孫の病気の責任もないが、治す力もない。
それで、「第三者」として、頼りがひのある神様にお願ひするのです。
これは外に向かふ祈りです。
教師の言ふ祈りにおいては、婦人が問題の「主人公」です。
自分に孫の病気の責任があるとともに、それを治す力も自分にある。
自分が自分の責任を果たしさへすれば、それを土台として神様の力が介入できるので、婦人の祈りが叶ふ可能性があるのです。
この時、祈りは自分の内面に向かひます。
「自分自身が自分の体験の源だ」
といふ意味は、自分の中に、自分が気づき、自分が解決すべき問題があるので、それを解決するために今自分がその体験をさせられてゐる、といふことです。
祈りはまづ初めに、絶対自分の内面に向けられなければならない。
さうしなければ、自分がいま体験してゐる問題についての自分の責任を果たすことができない。
かういう「祈祷講座」はしかし、外に向かふ祈りに慣れた我々には少し理解しにくいかもしれません。
ーー ここまで再録 ーー

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