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あの人は随分変はつたね

kitasendo
20200304 

45年前に父母が建てて、それ以来づつと住み慣れてきた家の中を今毎日片づけ続けてゐるのですが、出てくるモノの量は半端ではない。
私が家族を連れて帰つて来てからでも既に19年余り。
自分でも忘れてゐたやうなものが押し入れの奥からいくらでも出てきます。

その中に写真のアルバムが詰まつた箱が出てきて、中身をパラパラめくつてみると懐かしいものが随分ある。

大学時代の私の写真。
婚約時代の妻の写真。
保育園に通ふ頃の子どもたちの写真。

どれを見ても、
「変はれば変はるものだなあ」
と思ふ。

子どもたちは成長し、我々は年を取る。
外見はそんなふうに別人かと思へるほどに変はるけれども、私は私、妻は妻、子どもは子どもで、それぞれのアイデンティティは変はつてゐないだらうと普通は思つてゐます。

だから昔の写真を見れば、
「これは40年前の私だ」
といふふうに考へて、それを不思議にも思はない。

しかし容貌も髪の毛の量も体型も随分変わはつてゐるのだから、
「これはあなたではないでせう」
と言はれたら、
「いやいや、間違ひなく自分だ」
と立証できる手立てはあるだらうか。

これは案外難しいかも知れない。

そもそも
「変はるといふのは悪いことではない」
と考へてゐる節もあります。

例へば、
「自分が変はることはいいことだ。人を変へようとするより、自分が変はらう」
などとよく考へてゐます。

その場合の
「自分が変はる」
とは、どういふことだらう。

勿論この場合、
「容貌や体型が変はる」
といふ意味ではないから、それなら
「心が変はる」
といふことだらうか。

さうだとすれば、心はどういふふうに変はるのだらう。
心が本当に変はつてしまへば、私が私でなくなつてしまふといふことにはならないのだらうか。

「あの人は随分変はつたね」
といふ場合、例へば
「昔嫌ひだつた刺身が、今は好きになつた」
といふこともある。

あるいは
「昔は無神論者だつたのに、今は教会に通つてゐる」
といふのも、やはり変はつた一例になる。

これは、今の私が昔の私ではなくなつたのでせうか。
普通にはそんなふうに考へません。
では一体何が変はつたのか。

変はらないものがあります。
刺身は昔も今も変はらないし、神様も変はらない。
その変はらないものに対する私の態度が変はつたのです。

「相手を変へるよりも自分が変はらう」
といふのも、
「変わらない相手に対する私の態度を変へよう」
といふことでせう。

相手はちつとも変はつてゐないのに、今まで嫌ひで仕方なかつたところが、なぜか好きになる。
夫婦でもさういふことがありますね。
今まで嫌で仕方なかつた態度が、何かのきつかけで気にならなくなつたり、逆に愛おしく感じるやうになつたりする。

これは私の何が変はつたからなのでせうか。
態度を変へようといふのですが、その態度の元は何でせうか。

嫌なものは嫌といふのは「意識」です。
その「意識」に嫌だと思はせてゐる「無意識」が変はると、「意識は」
「どうして今までこれがこんなに嫌だつたんだらう」
と思ふほどにあつさりと変はつてしまふ。

どうもそんな気がします。

「無意識」の中の何が変はるかといふと、「記憶」だらうと思ひます。

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Admin:kitasendo