心田啓発
堕落することによつて、本心が狂つたのです。ですから、困難があつても、どんなことがあつても、皆さんは他のものを見て尋ねるなといふのです。良心に尋ねてみるのです。 祈祷するとき、漠然とするのではありません。神様が下さつた本心を持つてゐるので、その貴いものと一つにならなければなりません。この本心と一つになるとき、自分の一身のすべてのものが分かるやうになつてゐます。ですから、心田啓発や本心の門を合はせなければなりません。 現在、皆さんが接してゐる師や、彼が教へる基準が、皆さんに神様と永遠な関係を結ばせられないといふ事実を、皆さんは悟らなければなりません。 したがつて、皆さんは本心を求め、心の耳を通して天倫の呼ぶ声を聞き、心の目を通して神性を見て、心の触感を通して天の心情を感じなければなりません。 (『世界経典』458) |
私が何らかの困難に立ち至つたとき、解決策を自分の外側に求めやすい。
誰か私に教へてくれる人はゐないか。
何か解決の糸口となる情報はないか。
しかしさういふとき、外を見るな。
自分の中の良心を見なさい、といふのです。
自分の外側にどんなに立派な師や教へがあるとしても、さういふものによつては私が神様と永遠の関係を結ぶことができない。
自分の中の良心を先導者にするしか神への道はない、といふのです。
これを文鮮明先生は
「心田啓発」
と表現しておられます。
似たやうな意味合ひで、二宮尊徳は
「心田開発」
と言ひました。
村民が貧して田畑が荒れた時、
「無闇に金銭を下付したり税を免除すべきではない」
と時の藩主に具申してゐます。
「救済の秘訣はむしろさういふものを断ち切ることです。荒地は荒地自身が持つ資力によつて開発されなければならず、貧困は自分で立ち直らせなくてはなりません」
そのやうに具申し、尊徳自ら指揮を執つて、10年後にその村はしつかりと自立するに至つた。
昔の学校には必ずと言つていいほど、校庭の一角に尊徳像が立つてゐたものです。
背中に薪を背負ひ、空いた両手で本を抱へて読んでゐる。
あれは薪を背負つてゐたのか、それとも読書をしてゐたのか。
自分の「心田」を開発してゐたのです。

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