無意識を評価する
虫の足に生えた毛とは、実は我々の無意識の具体化である。意識はそれを無視するからである。私は人生のかなりの時間を、こうした無意味なもののために割いてきた。それはつまり無意識を評価する行為だということは、後で気づいたことである。 足の毛の意味を理解してしまえば、それは意識に翻訳されてしまう。そうなると、直ちに次の疑問に移る。頭の毛は何のためかという類の疑問である。なぜこうして常に疑問が浮かぶかと言ふなら、じつはすべてを意識化するためではない。意識化しようとする努力しか、無意識を「実在させ」、「評価する」方法がないからである。 (『養老孟司の大言論〈1〉170) |
男の子なら大抵、小学生の夏休みに虫網と虫籠をぶら下げて来る日も来る日も蝶やトンボや蝉を追ひかけた思ひ出がありませんか。
私もさうだつたが、特にその生態に関心があるといふわけでもなかつたから、捕らへた虫の足に毛が何本あるかなど、数へたことはない。
しかし博物学者はさういふことをするやうです。
そんなものを数へたつて日常の生活にこれと言つて役立つわけでもないから、意識はふつう無視する。
しかし実は、それは無意識を「実在させ」、「評価する」方法だと養老先生は言ふのです。
虫の足に毛が何本あるか、それは何か必然的な理由があつてさうなつてゐるのでせう。
しかしそれは自然の世界の摂理であつて、人間から見れば意識の外(つまり無意識)にあることです。
人間の中でもごくわづかの変はり者だけが
「どうしてこの虫の足には〇本の毛が生えてゐるのだらう?」
と考へて、その意味を探らうとする。
その人の行為によつて初めて、それまで人間の意識の外にあつた無意識が具体化(実在)するのです。
無意識を「実在させ」、「評価する」。
養老先生はこれを主に科学的な側面で論じておられるのですが、同じことは我々の日常生活のあらゆる面において適用されるでせう。
そしてこれはとても重要なことだと思はれます。
例へば、
「あの人のあの態度には、私はいつも腹が立つ」
とします。
普通には
「あの態度は非常識で傍若無人だから腹が立つて当たり前だ」
などと解釈する。
これは意識の解釈です。
しかし実は無意識の理由が他にあるかも知れない。
それをどのやうに「実在させ」、「評価する」ことができるでせうか。
無意識の理由をはつきりと特定(意識化)することはできない。
特定はできないとしても、特定しようと努力する行為それ自体だけで価値が十分にあるのです。
養老先生は
「無意味なものに長い時間を割いてきた」
と言はれるのですが、決してそんなことはない。
それなりの理由をもつた無意識は意識によつて早く掬ひ取られ、評価してもらひたいと願つてゐるのです。
「私はあの人のあんな態度に腹が立つやうな苦痛を抱へてゐるのです。それを理解してください」
と声なき声で訴へてゐます。
それが今私が腹が立つといふ現象として現れてゐる。
さう考へて意識的に対処すれば、無意識を「評価」してあげることができるのではないでせうか。
自己牧会はそのへんに焦点を当ててゐます。
(例へば「肉心よ、有り難う」など参照)

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