「今日の私」は「昨日の私」」と同じか
でも人の意識は、自分の周囲の空間を「環境」などと呼び、あたかも自分ではないように語る。環境「問題」を作り出すのは、人の意識であって、そうに決まっているではないか。 「考える」ことは、自分の意識の中に埋没することではない。そこからなんとか出ようとする作業なのである。私はそう思う。 乱暴に言おう。 世界は二つに分かれている。同一性が瀰漫(びまん)する場としての意識=言葉の世界と、万物が流転する意識外の世界。 言葉はまさしく両者をつなぐ。一つの言葉が両者を示すのである。 (『養老孟司の大言論Ⅰ』) |
数日来この本を読みながらづつと「考へる」のですが、養老先生の言ふ「考へる」といふことの意味がなかなか腑に落ちない。
腑に落ちないけれども、かなり重要な話ではないかといふ気が朧げにはする。
読者の方には迷惑な話だと思ふが、朧げなまま書いてみます。
冒頭の引用、前後を読み合わせても分かりにくいのに、ここだけ引用してはまるで判じ物のやうでせう。
乱暴に言はないでほしいが、この世界は二つに分かれてゐると言ふ。
意識の世界(言葉の世界)と意識外の世界。
「考へる」といふのは、意識の世界に埋没しないで、何とか意識外の世界に出て行かうとする作業だと言ふのです。
意識の世界とは「同一性の世界」あるいは「秩序の世界」です。
一方の意識外の世界は「流転の世界」あるいは「無秩序の世界」です。
分かりやすく「私」を例にとつてみませうか。
「私」と意識するのが意識の世界です。
この世界では昨日の私と今日の私とが同一だと意識されてゐます。
昨日の私も「元教育部長何某」だし、今日の私も「元教育部長何某」だと思ふ。
ところが意識外の世界では今日の私は昨日の私ではない。
例へば、「私」といふ意識のない肉体の何%かの細胞は1日で入れ替はつてゐる。
数ヶ月もすれば、すべての細胞が入れ替はるから、今日の私はもはや数か月前の私ではない。
これが「流転の世界」です。
さうすると、何だかおかしい。
実際の私(肉体)は確かに流転してゐるのに、意識の世界では
「私はあくまでも私だ」
と考へてゐる。
「昨日の私」と「今日の私」は同一だと考へる意識の世界は「秩序の世界」とも言へます。
実際には違つてゐる「昨日の私」と「今日の私」を同じだとやや強引に折り合ひを付けてゐるのです。
さて、話をもう少し広げてみませう。
私と誰か(Aさん)が同じバラを見てゐる。
どちらも同じバラを見てゐると思つてゐるのですが、実は同じではない。
色も香りも同じやうに見て嗅いでゐると思ひ込んでゐますが、私とAさんでは視力も違ふし、嗅覚も違ふ。
関心の置き所も違ふので、Aさんは私の見えてゐない棘の形の独特さに気づいてゐるかも知れない。
バラは「流転の世界」の存在なので、一つとして同じものはないし、一つのバラも刻々と変化してゐる。
ところが意識は「バラ」といふ「言葉」を使つて、私とAさんとは同じものを見てゐると思ひ込まうとしてゐるのです。
養老先生は「考へる」といふことを、かういふ同一性の世界から流転の世界へ出ようとする作業だと言ふ。
養老先生の専門は解剖学だが、博物学にも関心が深い。
博物学というのは、例へば常人には区別もつかない昆虫のわずかな違ひを発見して、細かく細かく分類するのです。
究極的には一匹として同じ虫はゐない。
博物学者は「流転の世界」に入り込むのです。
「アブラムシはアブラムシだらう」
といふ意識の世界から、
「一匹として同じアブラムシはゐない」
といふ流転の世界に入ることが、
「考へる」
といふこと。(?)
「昨日までの体験で今日の私ができてゐる」
と考へるのではなく、
「今日の私はまつたく新しい人間だ」
と考へることもできるかも知れない。
あるいは
「私とあなたの意見が対立するのは、同じ言葉を使つてゐても実は違ふイメージを持つてゐるからだ」
とも。

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