森をさまよふ青盲の人
前回の記事「僕が今日遅刻したのは、神様の栄光が現れるためです」の中で私が一番問ひたかつたのは、弟子の質問に対するイエス様の返答の意味です。
弟子たちは生まれつきの盲人を見て、
「その原因は本人の罪にあるか、その両親(先祖)の罪にあるか、そのどちらかに違ひない」
と考へた。
本人(あるいは先祖)の悪行 ⇒ 本人が盲人になるといふ悪現象
といふ因果律で現象を理解しようとしてゐます。
このやうな因果関係を科学的に証明することはできさうに思へませんが、宗教の世界ではとても馴染み深いパラダイムです。
それで特定の信仰をもつてゐない人でも、このパラダイムと無縁ではゐられないのか、何か悪いことが起こると、
「日頃の行ひが悪いからかしら?」
といふやうな因果関係をつい推測して不安に陥る。
それに対してイエス様は
「さうではない。そこに神様のみわざが現れるためだ」
と答へられました。
この答へは弟子たちにとつてまつたく想定外の答へだつたでせう。
どうしてイエス様と弟子たちとの間にはかくも大きな隔たりがあつたのでせうか。
両者の間にはなにかとても根本的な違ひがあるやうに思はれます。
ここから先は私の推測に過ぎないのですが、イエス様は弟子たちが考へてゐる因果律を否定されたのではない。
因果律そのものは目に見えない世界で確かに運行してゐる(だらう)。
しかし我々の現象理解が必ずしもその因果律に支配される必要はない。
現象そのものは、敢えて言へば善でも悪でもない。
善悪の色のないニュートラルなのです。
ところがその現象を我々が見るとき、
「これは善い、これは悪い」
といふふうに価値(色)づけをする。
これはつまり、現象をどのやうに理解するかといふ、我々の想念の問題なのです。
つまりイエス様が弟子たちに言ひたかつたのは、
「重要なのは現象そのものではない。その現象をどう理解し受け止めるかといふ、お前たちの想念のパラダイムを変へなさい。例へば、このやうに」
といふことだつたのではないかと思ふのです。
「例へば、このやうに」
と言つて、
「それは神のみわざが現れるためだ」
と言はれたのを見れば、
「私はこの盲人を前にして、責任をもつて関はる」
といふことを表明されたやうに思へます。
弟子たちは、
「この人にはどんな罪があるのか」
と客観的に理解しようとするだけの第三者の立場にゐた。
それに対してイエス様は
「私がこの人を通して神の栄光が現れるやうに責任を持つ」
といふ態度だつたのです。
こんにち身の周りでも言論の分野でも、あらゆる現象を分析評論する人は多くゐます。
しかしその人が弟子のやうな人なのか、あるいはイエス様のやうな立場に立たうする人なのか。
その違ひによつて、見えるものがまつたく違ふでせう。
私もかうしてブログの記事を書きながら、
「弟子たちのやうな想念のパラダイムで書いてはゐないか」
と最近しきりと気にかかるのです。
もし弟子たちのやうなら、森の中をさまよふ青盲(目は開いてゐるのに見えない)の人です。

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