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元教育部長の講義日記

僕が今日遅刻したのは、神様の栄光が現れるためです

2020/02/18
自己牧会 0
20200217 

例へば中学生の頃、学校に遅刻することがある。

遅れていくと先生に見咎められ、
「どうして遅刻したのかね?」
と問はれる。

問はれると、不可避的にその理由を考へて見つけようとする。

「昨夜遅くまで宿題をしてゐて、朝寝坊してしまつた」
とか
「いつものやうに登校しようとしたのに、急に腹痛に襲はれて…」
などと、とにかく理の通つた理由、相手を納得させられる理由を考へ出さなければならないと思ひます。

さういふ理由は相手を納得させられる前に、自分自身を納得させてくれるものでもなければなりません。

これは些細な一例に過ぎません。
それでも我々はことほど左様に子どもの頃から、何らかの出来事に対して必ずさうなつた理由をはつきりさせないといけないと習慣づけられてきたし、また必ず理に適つた理由があるはずだとも思ふやうになつてきたと思へます。

確かに、科学でも宗教でも
「因果律」
を強調します。

どんな現象(果)にも必ず特定の原因(因)があるはずだ、といふのです。
しかし、あらゆることの原因を我々は正しく把握することができるのでせうか。

冒頭の例で言へば、少年は自分の頭をフル回転させて
「睡眠時間が短かつたから」
「体調が急変したから」
などといふ理由を探し出したのですが、それが本当の理由に間違ひないのか。

もしかしたら人によつては、
「それは先祖の因縁から来てゐる」
と言ふかも知れないし、別の人は
「本人にも自覚できない『学校へ行きたくない』といふ潜在意識が原因だ」
と考へるかも知れない。

どの理由が本当に正しいのか、分かりません。
それでも我々は理由がほしいのです。
何でもいいから理由が見つからないと、人からは責められるし、自分自身の心も落ち着かない。
我々人間はさういふ本性を持つてゐるやうです。

聖書の中にもこんな場面があります。

イエスが道を通つておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。

弟子たちはイエスに尋ねて言つた、
「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」

イエスは答えられた、
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」
(ヨハネ福音書9:1-3)


弟子たちは彼らが慣れ親しんできた宗教的概念の枠組みの中で「盲人であること」の原因を特定しようとしてゐます。
しかしそれに対するイエス様の答へはあまりにも意外です。
イエス様は弟子たちと同じ宗教的概念の中におられない。

このイエス様の返答の中にあるのは
「目に見える現象の本当の理由は、我々にはほぼ特定できない。だから、それを特定しようとすべきではないし、もしそれでも何らかの理由がほしいと言ふなら、常に『神のみわざ(栄光)が現れるためだ』と考へるのが最も正しい姿勢だ」
といふ思想だと思はれます。

この思想に沿ふなら、冒頭の中学生は先生の問ひに対して
「僕が今日遅刻したのは、神様の栄光が現れるためです」
と答えるのが最も賢明な返答だつたことになります。

本当にそんなふうに答へたら、
「いい加減な理由で誤魔化すな!」
と先生に一蹴されさうです。

しかし遅刻したといふ現象の理由を寝不足とか体不調で済ませるとすれば、そこにはほとんど何の本質的な意義もない。
その場しのぎの弁解で終はるのが関の山です。

「今日僕が遅刻したことで、神様は僕に何を悟らせようと考へておられたのだらう? 今日の遅刻をいつの日か神様の栄光にするために僕は何を努力したらいいのだらう?」

さう考へるのが本当の因果律だ、頭だけで考へる因果律など捨ててしまへとイエス様は教へておられると、私は思ふのです。

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