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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

良心の悦び

2020/02/16
私の中の世界 0
20200216 

急いで教会に向かふ車で交差点に差し掛かつたとき、
「右から行つたはうが早いですか、左から行つたはうが早いですか?」
と尋ねたら、
「焦らなくていいよ。事故に気をつけて」
と良心の声を聞いた。

さういふ
証を以前に紹介したことがあります。

今朝私も教会の礼拝に向かふとき、交差点に差し掛かつたのでこの証しをふいに思ひ出したのです。
尤もこの交差点では左折したら反対方向に行く。
右折するしかないので、こんな質問はするまでもない。

さう思つてゐると、
「良心は効率的なことにはあまり興味がない。私が安全であることに腐心してゐるんだな」
といふことに得心がいきました。

ところがすぐに、
「私は喜びを求めて生きてゐる。良心は何が喜びで生きてゐるのだらう?」
といふ疑問が湧く。

「今日は交差点でふいに良心を思ひ出したけれども、普段はほとんど忘れてゐる。それなのに私の安全を気遣つてくれてゐるとは一体どうしたわけだらう?」

良心は第二の神様といふ。
第一の神様から私専用の小さな神様として遣はされた。
良心には使命があるはずだが、肝心の私から忘れられてゐてはさぞ寂しいだらう。

「さては、良心の喜びは私と話すことではないか」

良心が私に話しかければ、私が応じる。
私が良心に尋ねれば、良心が答へる。
さういふやり取りが毎日できればそれが良心の喜びであり、それでこそ良心にも生き甲斐があるのではないか。

もしあなたがたのうちふたりが、どんな願ひ事についても地上で心を合はせるなら、天におられるわたしの父はそれをかなへてくださるであらう。ふたりでも三人でもわたしの名において集まる所には、わたしもその中にゐるからである。(マタイ18:19-20)


こんな聖句もありますが、ここで言ふ「あなたがたのうちふたり」といふのは、私と誰か他の人の二人である前に、「私と私の良心」の二人であるべきではないだらうか。
私がいつも親しく、当たり前のやうに良心に尋ね、良心と対話して生活するならば、天におられる第一の神様はその二人の中にもおられる。

さうなれば良心の使命も果たされ、良心にとつて本望ではないでせうか。

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