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元教育部長の講義日記

心窓の中に入る

2020/02/07
読書日記 0
小林秀雄
白隠 

岡潔は小林秀雄と並んで、私にとつて汲めども尽きぬ智慧と喜悦の源泉です。
前の記事で紹介した岡潔先生の『春風夏雨』の中をもう少し渉猟してみようと思ひます。

不可知(ふかち)といふ一句にもう一句添へるのがよいと初めていつた人は、白隠禅師だと聞いてゐる。
「不可知、無所得(むしょとく)」とせよ、といふのである。


「不可知」とは
「知らうとしてもなかなか知られない」

「無所得」とは
「得ようとしてもなかなか得られない」

といふふうに普通には解されさうですが、岡先生によると白隠禅師はそのやうに訓へたのではない。

「知らうとしてはいけない、得ようとしてはいけない」
と、むしろ逆の方向の意志的努力を訓へようとしたといふのです。

岡先生は数学者だから数学の世界を知らうとしてとことん探求したのではないのだらうか。
知らうとして探求して数学的真理を得たのではないのだらうか。
そのやうに思はれますが、どうも深く考へると違ふやうです。

岡先生の数学探求の様子をご自身の言葉でこんなふうに表現しておられます。

数学の研究の場合には、大体二年間くらゐ関心を集め続けるのであつて、さうすると一つの論文が書ける。
数学の本質は、主体である法(自分)が客体である法(まだ見えない研究対象)に関心を集中し続けることである。
さうすると客体の法が次第に姿を現してくる。


それを岡先生は
客体の法が(自分の)心窓の中に入る
とも表現してゐます。

この時の自分とは「真我」であつて、数学も禅もこの真我ですると言つておられます。
小我で知らうとすると分別智になり、小我で得ようとすると世間智になって、そのやうな智の中には「無明」がいくらでもはびこると言ふのです。

岡先生はご自分の数学的体験を仏教的概念で表現されるので私にはとても分かりにくい。

それでもおぼろげながら私なり解釈すれば、
「私の人生の真相を知らうとしてはいけない、損得で何かを得ようと行動してはいけない」
といふふうに読み取れます。

手がかりとして岡先生は白隠禅師の有名な逸話を紹介しておられます。(これはかつて私も記事にしたことがあります)

白隠禅師がある田舎の寺の住職をしてゐたとき、村の娘がいたずらをして子を産み、男は逃げてしまつた。
娘は父親に咎められるのを恐れ、禅師の子と言へば許されるかと浅慮して嘘をついた。

かんかんに怒った父は寺に怒鳴り込んで、その子を禅師に押しつけた。
ところが禅師は一言も弁解せず(私の記事では一言「ほう、さうか」と言つた)その子を受け取り、もらい乳をして村を歩いた。

数年に及ぶその姿を見るに堪えかねて、娘は父に真相を白状する。
父親が慌てて寺に駆けつけ謝罪してその子を引き取らうと願ひ出ると、禅師はまた一言「ほう、そうか」と言つて、子を返した。

誤解が溶けてみると、一旦は地に落ちてゐた禅師の名声は一気に上がり、教化はおのづから進んだ。

さういふ逸話です。
これが「不可知、無所得」を外側から見た姿だと、岡先生は言ふのです。

小我で対処すれば、これほど理不尽なことはない。
自分には非がないのになぜ娘の咎を自分が責められるかと、身の潔白を主張しなければならない場面です。
あるいは逆に、この理不尽を受け入れ、それがのちに冤罪と分かれば、自らの名声は上がるかも知れないと打算を働かせ得るかも知れない。

しかし真我は、
「なぜこんな理不尽が自分に降りかかつてきたか、知らうとするな。この結果どういふ益を得ようかと願ひもするな」
と自らに言ひ聞かせるのです。

小我は神様から切り離された「堕落性」の自分であり、真我は良心が垂直に降りてきた「正午定着」の自分だと言つていいでせうか。



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