自分の中の否定の思ひ
大切なのは、子どもがどうして学校に行かないといふことを体験してゐるのだらうかということです。 「友だちにいぢめられてゐるのではないか? 環境が合はないのではないか?」 と考へるのが普通です。 しかし天一国主人の生活は、 「私は何を否定してゐるのかな? 誰かを否定してゐるのではないかな?」 と私の中の否定の思ひに気づいていくことが大切です。 |
自己牧会プログラムの中でのやり取りの一節です。
子どもが不登校になるといふ現象はお母さんの外側で起つてゐる(と普通には考へる)。
それでその原因もお母さんの外側にあると考へる。
しかし、子どもが不登校になつて心配してゐるといふ体験は、お母さんの中で起つてゐるのです。
そこで天一国主人であれば、体験の意味を一段階自分の側に引き寄せ、現象の原因が自分の中にあるのではないかと考へてみる。
そしてその原因を
「自分の中の否定の思ひ」
に求めてみようといふのです。
「否定」
といふ言葉が気にかかります。
自分の中にさういふ思ひがあつたとしても、それと子どもの不登校との間に因果関係などがあり得るものでせうか。
不可解な気はするものの、お母さんの中にどんな否定の思ひがあり得るか、ともかく想像してみませう。
まづ、子ども自身を否定してゐる可能性がある。
「この子はなぜ学校に行かないのだらう? 決まつたことだし、他の子たちは通つてゐるのに。ダメな子だ」
次いで、学校を否定してゐるかも知れない。
「なぜ学校はうまく対応してくれないのだらう? 学校はいろいろな子を受け入れてくれるべきなのに。ダメな学校だ」
さらには、夫までも否定してゐないとは限らない。
「なぜ夫は子どものことにもつと協力してくれないのだらう? 父親としての責任があるはずなのに。ダメな夫だ」
突き詰めると、自分自身を否定してゐる恐れもある。
「なぜ私はこんな子に育ててしまつたのだらう? もつと良く育てることができたはずなのに。ダメな自分だ」
このやうに自分の内面に目を向け続けていくと、それまでと大きく違ふ風景が見えてくるのではないでせうか。
最初は、子どもの学校でのいぢめや環境などだけが見えてゐたのに、自分の中にある「否定」の多さに気づく。
「私の中にはこんなに隅から隅まで否定が蔓延してゐたのか」
と驚くほどです。
自分の中の否定の要素が本当に子どもの不登校と繋がつてゐるのか。
もし繋がつてゐるとしても、どのやうに繋がつてゐるのか。
それははつきりと分かりません。
しかし気がついてみれば、少なくとも
「こんなゴミのやうなものは自分の中から片づけたいな」
といふ気持ちにはなります。
考へてみると、私たちの中の「否定」の要素は随分根深いものだと思ひます。
男女の始祖たちがエデンの園で神の戒めに背いたとき、彼らは神様を「否定」したとも言へます。
またその子どもであるカインが弟のアベルを殺したのも、自分が生きるために弟の存在を「否定」したい思ひから始まつたものでせう。
その後も我々は歴史的に多くの過ちを犯しながら生きてきた。
生きるためには自分を正当化しなければならず、そのためには自分の生を脅かすものを「否定」せざるを得ない。
「否定」を繰り返しながら辛うじて生きてゐるのが我々だと言へなくもありません。
子どもが不登校になつたのは本人にとつてもお母さんにとつても辛いことには違ひない。
しかしそれを通してお母さんが自分の中の「否定」の深淵に気づくことができれば、深い意味でそこから転換が起こり得ます。

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