無明なる私
新古今和歌集に所収の
心無き身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
といふ西行の歌は名歌として名高いが、数学者の故岡潔博士は
「無明を直視したため、美しく弱々しい」
と評してゐます。
美しい歌には違ひないが、弱々しい。
なぜそんな歌が出来たかといふと、西行は「無明」を直視してゐたためだ。
さういふ見立てです。
「無明(むみょう)」といふのは仏教用語で、その意味は「無知」とか「迷ひ」。
煩悩の根源だと見做される。
智慧や真理の光が届かないために暗闇の中にゐるといふニュアンスが感じられます。
岡博士は「無明」といふ言葉をよく使はれ、例へば
「ピカソは無明を描く達人だ」
などとも言はれる。
岡博士の洞察とは違ふと思ひますが、私なりに西行の歌を読み解いてみます。
「心無き身」
この意味は、出家して俗世間から離れた自身を言ふとも、家族を捨てた無情な自身を言ふとも、いろいろな解釈があります。
私はこれを
「無明なる私」
と解いてみます。
秋の夕暮れ「無明なる私」が「鴫の飛び立つ沢」に身を置いてみると、とても「あはれ」な感情が沸き立つてくるのを感じる、といふのです。
「あはれ」といふのはとても多義的で茫洋としており、包括的な感じもあります。
この時西行はどんな感情を覚えたのでせうか。
黄昏時の薄ぼんやりした沢の景色は、俗世間を離れた孤独感を誘発するか。
あるいは人生のたそがれを象徴するやうな侘しさを感じさせるか。
あるいは鴫のやうに天空に飛び上がつて行けない我が身のやるせなさを感じさせるか。
おそらくここに西行ではなく別の人が立てば、「あはれ」の感情はまたその人独特の感情であるに違ひない。
同じ景色であつても、そこで感じるものは人それぞれに千差万別なのです。
ところが千差万別ではあつても、そこで湧いてくる感情は「無明」の淵から立ち上がつてくる。
その違ひはない。
この歌はそのやうに「無明」から立ち上がつてくる感情を無自覚に表出したものに過ぎない。
そんな歌に多くの人が共感し名歌だと思ふのは、その多くの人が西行と同じ「無明」の中の住人でありながら、自分では真似できない巧みな表現で具体的な形を見せてくれてゐるからです。
流離顧客の寂しさ。
人との深いつながりを感じられない空虚感。
日が沈むやうに暗闇に向かって行く自分の行く末を秋の夕暮れに重ねる人生観。
さういふ感情や思ひは「無明」から出てくるものであつて、無自覚にそれに浸つてゐてはちょつと詮ない。
名歌を詠めなくても、我々も日常生活の中で様々な状況に出会ひながら、西行と同様に「無明」から湧き出る感情と思ひに浸つてゐます。
それを「あはれ」(私の人間らしい感情)と思ふのではなく、むしろ意識して捨てたはうがいい。
「無明」といふのは結局、我々が根源的な神様から離れて自分たちなりに営々と営んできた人生の体験と記憶の集積なのです。
それゆえ、そこから湧き上がる感情のままでは神様に戻る道がない。
だから折に触れて感じる、寂しいとか、虚しいとか、人が憎いとか、私だけが正しいとか、さういふ思ひはまづ捨ててみる。
「無明」が限りなくなくなり、智慧の光が差してくるやうになれば、「秋の夕暮れに鴫が飛び立つ沢」に立つて自分の中にどんな神様を感じるだらうか。

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