3人の「私」
「自分を愛することが人生の最優先事項だ」
と言ふと、道徳的な人は眉を顰めるかも知れない。
人から愛されることばかりを願ふのは問題かも知れないが、しかし自分で自分を愛するといふのは非常に大切なことではないかと思ふのです。
このやうに考へるのは、イエス様の教への中に
「自分自身を愛するやうにあなたの隣人を愛せ」
とあるからです。
この教へのポイントは、後半(隣人を愛する)ではなく、前半(自分自身を愛する)にあるだらうと思ひます。
「隣人を愛する」
といふのはイメージしやすいのですが、
「自分を愛する」
といふのはどのやうにすればいいのか。
これがどうにも謎なのです。
自分を愛することは容易でせうか。
そんなことは子どもにでもできさうに思へます。
ところが実は、自分で自分の正体や価値が曖昧だと、自分を愛することは意外と簡単ではない。
あなたは自分をどれくらい愛してゐますか。
どのやうに自分を愛してゐますか。
ここから先は少し理屈つぽくなる可能性があります。
「自分が自分を愛する」
と言ふとき、最初の自分と二番目の自分は同じなのでせうか。
普通に「愛する」といふときには、「愛する主体」と「愛される対象」とが別の存在です。
それなのに2人の自分が同一の存在であれば、「愛する」といふことがそもそもできるのでせうか。
そこで私は、自分は一人ではないと考へます。
少なくとも2人、見方を変へれば3人と考へることも可能です。
例へば、文鮮明先生は自分は2人ゐて、1人を「縦的自分」もう1人を「横的自分」と呼ばれます。
「縦的自分」が「横的自分」を愛すると言へば、自分自身を愛するといふことが可能です。
この2つの自分に「良心」を加へていいものか、私にはまだ整理がついてゐません。
また、ハワイ発祥の問題解決手法ホ・オポノポノでは、
①表面意識(ウハネ)母
②深層意識(ウニヒピリ)子ども
③超意識(アウマクア)父
の3つが一つになつて本当の自分になると考へます。
この考へ方は興味深いので、少し紹介します。
普通に「私」と意識してゐるのは表面意識(ウハネ)です。
この私が処理できる情報量は、コンピューターに譬えれば毎秒15ビット。
それに対して深層意識(ウニヒピリ)では毎秒1500万ビットの情報が立ち上がつてゐる。
およそ100万倍です。
この第2の私は宇宙始まつて以来のすべての記憶を貯蔵してゐます。
この記憶は仏教で言ふところの
「カルマ(業)」
に近いものかと思へます。
第1の私が日々体験するすべての出来事は、第2の私がほぼ無限とも言へる記憶の貯蔵庫の中から再生して見せる現象です。
再生する目的は、その記憶(カルマ)を消去したいからです。
第2の私が消去したい記憶を再生して第1の私に見せる。
それが第1の私が体験する出来事です。
苦痛や恨みの体験。
迷ひ、後悔、自己嫌悪の体験。
優越と劣等の体験。
出会いと別れの体験。
ありとあらゆる体験です。
第1の私がそれを体験したとき、
「これは第2の私が消したい記憶なんだ」
と考へて、心の中で消去を願ふ。
そのとき唱へる言葉が
「有り難う(あるいは、愛してゐます)」
です。
消去には第2の私の協力が絶対に必要なので、消去は第1の私と第2の私の共同作業になります。
協力を頼むにはお互いに気持ちが通じてゐないと難しい。
だから常日頃から第2の私に関心を持ち、事あるごとに言葉をかけ、相談しながら物事に対処する習慣が必要です。
それはちょうど、お母さん(第1の私)が幼い子ども(第2の私)を愛し、慈しむのによく似てゐます。
ここに「自分自身」を愛するといふ課題が出てくるのです。
かういふ考へ方をすると、「自分を愛する」といふことがとても分かりやすいし、その大切さもよく分かります。
私たちは普段、日常の判断をするとき、第1の私だけで決めてゐることが多いでせう。
今日は起きて何をするか。
今日は誰に会ふか。
今日の夕食は何にするか。
これはやるべきか、やらないべきか。
かういふことを第1の私だけで決めてやらないで、第2の私といつも相談して決める習慣を作る。
これが私(母)が私(子)を愛するといふことになります。
そして母と子の関係が良くなり緊密になつて2人で一緒に記憶を消さうといふことになると、そこで初めて第3の私(超意識)が父親のやうな立場で降りてきて、その記憶を受け取り、神聖なる存在に届けてくれる。
これが第2の私の中に貯蔵された記憶(カルマ)を消していく一連の流れです。
この記憶が第2の私の中からすべて消え去つた状態を
「ゼロ」
と呼びます。
仏教で
「無(解脱、涅槃)」
と呼ぶ状態に似てゐます。
この状態になると、人を見て感じたり判断するとき、過去の記憶に依らなくなる。
自分の中にも創造本性しかないので、相手の中にも創造本性しか見ないといふ状態です。
(過去の記憶に依つて物事を見、判断する性質を「堕落性」と言つていいかと考へます)
このやうな作業をおばあちゃんと一緒に暮らす体験の中で実践してみると、
「私の正義を捨てる」
といふやうな閃きが時々来るのです。

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