ラッキーの目は口ほどにものを言ふ
今年11歳になる我が家の愛犬ラッキー。
犬種はパピヨン。
彼が近づいてきても、じつと見つめると、すぐに目を逸らすシャイなところがあります。
上の写真は目を逸らす前の瞬時のチャンスをとらえて撮影したものです。
彼の写真の目をじつと見つめた時、あなたはどんなことを感じるでしょうか。
「彼は今、一体何を感じてゐるのだらう?」
「彼には何か言ひたいことがあるのだらうか?」
「目は口ほどにものを言ふ」
と諺にもありますが、目は本当のところ言葉以上に大量の情報を発信してゐるやうに見えます。
ラッキーの目は優しい感じがするし、少し気弱で寂しさうなところもある。
ところが、私はそのやうに感じるのは、本当に彼がそのやうなのでさう感じるのかどうか。
もしかして、私は彼の目の中に私自身の中身を感じてゐるのではないか。
つまり、かういふことです。
私が読んでゐるのは彼の目から出てゐる情報ではなく、彼の目が反射してゐる私自身の情報なのかも知れない。
私が彼の目を見ると私は私なりの感情を抱く。
しかしおそらく、誰か他の人が同じ彼の目を見れば、また違ふものを感じるのではないか。
とすれば、我々は彼自身が発してゐる情報を読んでゐるのではなく、我々自身が持つてゐる情報を相手を経由して読んでゐる。
もしさうなら、その情報はどこから出てきてゐるのか。
私の考へはかうです。
我々は誰でも大量の(ほぼ無限と言つてもいい)情報を抱へてゐる。
情報を貯蔵してゐるのは普通に言へば「深層意識」。
そこに私の先祖たちが代々作り出した記憶と言ふ膨大な情報があります。
私が例へばラッキーの目を見た時、その膨大な情報の中から何らかの関連があるものが立ち上がる。
その立ち上がつて来る情報を
「蕩減情報」
と呼ぶ人もゐます。
その意味は、先祖たちの多くが人生の体験を通して抱いた「痛み」「恨み」「憎悪」「嫉妬」… などのどちらかといふと負の記憶。
もちろん、「喜び」や「感謝」などといふ正の記憶もあるのですが、いづれも堕落性に纏はるものです。
それが、今の私の体験を契機として立ち上がる。
つまり、私は今の体験を通して、自分がどんな蕩減情報を抱へてゐるかといふことを自覚する。
自覚したところから蕩減復帰(堕落性を脱ぐ)が始まるのです。
私の表層意識、つまり大脳皮質は深層意識にどんな情報が溜まつてゐるのか知らない。
だから体験を通してどんな感情が湧くかは表層意識にはコントロールできない。
ただ、出てきた情報を見て、初めて自分の正体を知るばかりです。
「蕩減情報」がなくなるまで、我々はラッキーの目が発信する本当の情報を読み取れないのです。
ラッキーの目は、我々が体験する日常のすべての体験の象徴のやうに思へます。

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