相応しい敬意
元旦の未明に目が覚めてしばらく眠れないでゐる間に、我ならぬ思ひが浮かんできて、
「どんなことをしようと、それが神様と通じてゐないと価値がないし、喜びもない」
といふ声のやうなものが聞こえてくる。
そして夜明け方に夢を見ました。
初夢です。
広いホールのやうなところにそれなりの数の人が集まってゐる中に、お母様が座つておられる。
バーベキューでもするやうな武骨な木のテーブルに、木の椅子。
私は最新モデルの自転車を持つてゐる。
近くでお母様を見ながら、一つ聞きたいことがあつたので質問を紙に書いてゐます。
「お母様は昔こんな自転車に乗つて見られたことがありますか?」
もとよりこんな新しい型の自転車が昔あつたはずがないことは分かつてゐます。
自慢するつもりはないと思つてゐました。
お母様は何も答えられず、黙ったまま立ち上がり、どこかへ戻つて行かれました。
その時私は、
「その人に相応しい敬意を払つて接しなければいけない。それでこそ正しいやり取りができる」
と思つたのです。
「大好きだつたお父ちゃん」
といふ記事で、おばあちゃんとの日常のやり取りを記しました。
それに対して、
「お母さんに対して神様に侍るやうに接しておられる」
といふやうなコメントもいただいたのですが、実際のところはとてもそんなふうではない。
頭では
「父母は家庭の神様」
と思つてゐるのですが、実際の態度は、年を取つてものも分からず、やれることも段々減つて、始終ぼーっとしてストーブの前に座つてゐる「私の母」として接してゐることがほとんどなのです。
私は「私の母」にも「真の母」にも相応しい敬意を払つてゐない。
どんな人であれ、その人は私の前に「神様のかたち」として現れてゐる。
初夢の警句のやうな気がします。

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