大好きだつたお父ちゃん
今年89になり、認知症が進み、目も耳も鼻もその機能を随分失つて来てゐるおばあちゃん(実は母ですが)と一緒に暮らしながら、手がかかる一方、感心させられることがいくつかあります。
緑内障が進んで視野はだいぶ暗くなつてきて、食事をしても目の前の皿に盛つたおかずがよく見えない。
箸を何度も右往左往させながら、やつと掴んで口に持つていく。
傍から見てゐてももどかしいのですが、本人はそれについてほとんど愚痴も言はず、弱音も吐かない。
ただ、
「昼間でも暗いねえ。テレビがついてゐてもよく見えないね」
と言ふくらゐです。
テレビもよくは見えない。
耳も遠いので、音もよく聞こえない。
さういふ世界で、昼間一人でどんな心持ちだらうと想像すると、私なら耐えられないやうな気もします。
だから多分、おばあちゃんも昼間はあまり動かず、最近ならストーブの前に坐つてぢつとしてゐる。
そして昼の休みや夕方に私が帰ると顔にぱつと生気がさして、俄かに動き始めるのです。
急にテレビをつけようとしたり、台所に立つて洗い残しの食器があれば洗ひ始めようとしたりする。
私が夕食を作り始めると、横に来て汚れものがあればすぐに洗おうとするので、却つて邪魔になつたりもします。
2人になれば力が湧いてくるのでせう。
何かと動き回り始めます。
気分の良い日には、夕食後、歌を歌ひ始めます。
おかしなもので、つい今しがたのことは忘れるのに、大昔の歌はよく覚えてゐます。
十八番は
「365歩のマーチ」
「十五夜お月さん」
「戦友」(軍歌 ♪しつかりせよと抱き起し♪)
など。
これらを興に乗せて繰り返し歌ひます。
もつと気分が良い日には、布団の中に入つてからもしばらく歌が続きます。
「おばあちゃん、なかなかの美声で、歌もうまいもんだね」
と褒めると、
「あれ恥ずかしい、音痴でうまいもんかね」
と照れる。
そして、何より敵わないなあと思ふのが、亡くなつた父をよく呼ぶことです。
今は2人座敷に床を並べて寝るのですが、一人で先に座敷に行くときは、仏壇をあけて手を合はせ、
「大好きだつたお父ちゃん、どうしてあんなに早く逝つてしまつたの。さびしいよ。会へないけど、守つてくださいね」
などと、大きな声で祈るときもあります。
台所にゐても聞こえるくらゐの大声で呼ばはるので、私もそそくさと座敷に行つて、
「おばあちゃん、お父さんがほんとに大好きだつたね。それにしてもあんな大声で呼んだら隣近所にみんな聞こえて、ちょつと恥ずかしいよ」
と揶揄ふと、
「そんなに大声だつたかね」
と恥じらふ様子を見せる。
父が亡くなる直前に祝福を受けてはくれたものの、祝福教育はほとんどしてゐない。
それでも亡き夫を慕ふ真情は純粋で、羨ましいなあと思ふのです。
私はおばあちゃんほど純情ではないので、トイレに入つた時に妻の名前を声に出して呼んで、
「会ひたいなあ」
とおばあちゃんを真似てみるのですが、やはりどうも気恥ずかしい。
この分野は私がおばあちゃんに学ぶことです。

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