結局、私の感情の問題なんです
現在の私たちの体は地獄の基地となっており、良心は天国の基地となって、二つの世界の分岐点を自体の中に持っていることを知りませんでした。 (「文明間の対話と調和」文鮮明総裁) |
天国も地獄も外部のどこかに造られるものではない。どちらの基地も自分自身の中にあつて、その基地なしにはいかなる天国も地獄も形成されてはいかない。
ここで文先生が言つておられることは単純なことのやうでありながら、長い歴史の中でごく一部の覚者以外にはほとんど自覚されない真実であつたと思ひます。
毎月1回、おばあちゃん(私の老母)がお世話になつてゐるデイケア施設の担当マネージャーさんが報告と打ち合わせに来られます。
先日訪ねて来られた時、家でのおばあちゃんの様子を伝える話の結論で、
「結局、私の感情の問題なんです」
と言ふと、ケアマネさんが
「やはりそこに来ますか」
と応じて下さつた。
これまでブログの記事で書いた通り、認知が進み目も見えにくくなつてゐるおばあちゃんは、毎日想定外の行動に出ます。
風呂からあがるときに私の下着を着る。
洗濯物を2度洗ふ。
味噌汁を大量に作る。
同じ事を5分おきに繰り返し聞く。
真夜中に孫が帰つてきたら寝具が必要だらうと心配するのを宥めすかして寝かせると、布団に入って
「優しい息子のお蔭で九十ばあさんは幸せです」
と言ひながら鼻歌を歌ふ。
さういふ常軌を逸した(と私には思へる)行動パターンに対して私がイライラしたり、腹を立ててつい大声になつたり、少し嬉しい気持ちになつたりするそのすべては私の感情なのです。
おばあちゃんは別に私をイラつかせたり怒らせたり喜ばせたりしようと考へて行動してゐるわけではない。ただ物を忘れるから、目がよく見えないから、有り難いからさういふ行動になるだけであつて、何の他意もない。
ただ私がそれを見て、謂はば「勝手に」イライラしたり、「勝手に」腹を立てたり、「勝手に」喜んだりしてゐるに過ぎないのです。
それで
「結局、私の感情の問題なんです」
と言つたのです。
毎月1回来られる度に私が同じやうな話をするものだから、呑み込みの良いケアマネさんもだいぶ分かつて来て、
「やはりそこに来ますか」
といふ反応が出てきたと思ひます。
私の目の前の人、あるいは周辺の環境は、本来良くも悪くもない「フラット」なものです。それを「良い」とか「悪い」とか考へるのは、私自身です。
以前の記事で
「3Hをしないで人の話を聞く」
といふことを書きましたが、考へてみるとこの3Hが私の感情です。
私の感情は私の「肉心」と言ひ換へてもいいでせうか。文先生が「体」と言つておられるのは、この「肉心」のことです。
とすれば、3H即ち
①評価する
②批判する
③否定する
が地獄の基地になり得ます。
この3つをなくせば、私は人でも環境でもほとんどフラットな状態で観ることができさうに思へます。フラット(水平)になつてこそ、垂直に良心が降りてくるでせう。

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