影のない人
photo by Miyata
正直に生きたいと思ひながら、実行は随分と難しい。
正直といふ生き方は、
「正午定着」
と言ひ換えてもいいかと考へます。
「正午定着」のイメージは、正午に太陽が頭の真上にあつて影がない状態。
影といふのは、自分の中にあることは自覚してゐるが表に出したくない自分の要素です。
人に知られるのは恥ずかしい。
善人らしい自分のイメージが棄損されさうで、表明するのが怖い。
さういふ要素が私の中にいくつもあります。
おそらく影がないといふ人はゐないでせう。
正直といふことを2つに分けて考へてみます。
一つは、人に対して正直であること。
もう一つは、自分に対して正直であること。
尤も、この2つは密接に繋がつてゐます。
自分に正直であれば、人に対しても正直であることはさほど難しくないでせう。
自分に正直であるといふのは、自分に嘘をつかないといふことです。
もう少し厳密に言ふと、自分の良心に嘘をつかない、良心をごまかさないといふことです。
これが本当に難しい。
自分の良心に一つの嘘もなく生きることができれば、私は完全なる正午定着者だと言へるでせう。
私の心にまつたく影がない状態です。
正午定着すると私は自分の良心の思ひや願ひとまつたく一致してゐるので、良心をごまかす必要がなく、心はとても自由になる。
良心に嘘をつく必要がないので、人に対しても嘘をつく必要がない。
ありのままの言葉、ありのままの態度で接することができる。
裏と表のない人間になります。
私がそのやうな人間になると、私の周囲の人の反応は2つに分かれるかも知れません。
一つは、騙される心配がないので安心して近づいてくる人。
もう一つは、裏がないはずはないと疑り、むしろ反発して遠ざかる人。
人は大体自分の内面を相手に映して見るので、目の前に正午定着の人がゐても、その人を通して自分の非正午定着性を見て疑り、反発する。
結局、人は正午定着の相手に反発するのではなく、自身の非正午定着性に反発してゐるのです。
しかし人間の本性は前者です。
本当に正直な人の周りに人が着実に集まり、人気を得る。
かういふ人に近づきたいのは何も人間に限つたことではない。
万物も近づきたく思ひ、神様さへ同じ気持ちになられるでせう。
どんなに大きな権力を持つ個人も大きな組織も、嘘が多く正直でなければ、その足場が次第に崩れていくことを今の世相を見てゐると率直に感じることが多いのです。
そして私が「影のない人」になる道のりもまだ随分遠い。

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