FC2ブログ

教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

TOP >  生活日記 >  砂浜から砂金を掬い上げる

砂浜から砂金を掬い上げる

20191126 

3Hしないで人の話を聞くといふのは至難の業だといふことを前回書きました。

3Hとは、

① 批判する
② 評価する
③ 否定する

の3つです。

3Hしないと言ふのは相手の話を有無を言わずに受け入れることかと言へば、さうではない。
自分の考へなど取るに足りないから相手を上に見よといふのでもない。

問題は、我々は平常フラットな気持ちで人の話をほぼ聞けないといふことです。
色眼鏡といふか自分なりのフィルターが必ずある。

私なども例えば礼拝で説教を聞く時、3Hに満ち溢れてゐるのです。

「この人はさう言ふけど、熟慮が足りない、かういふ見方もある」
「それはこの人の個人的な考へであつて、誰にでも通じるものではない」
「着眼点は悪くないが、表現が上手くない」

などといふやうな思ひが、それこそひつきりなしに浮かんでは消えていきます。
さうすると、説教の内容などほとんど頭に入らない。
下手をすると、説教者の話を聞きながら、いつの間にか次の機会にするはずの自分の説教が出来上がつたりするのです。

教会では
「アベルの話が真の父母(あるいは神様)の話だと思つて聞けてゐますか?」
などと指導されることもあります。

とても信仰的な指導のやうでもありますが、考へてみると、これも
「3Hしないで人の話を聞いてみなさい」
といふことです。

どんなに立派な指導者でも人間ですから、思ひ込みもあれば思ひ違ひもあらうし、偏りや不完全もあるでせう。
それでも敢えてさういふマイナスに目を向けず、フラットな気持ちで聞いてみる。

相手は相手なりの思ひもあつて話をしてゐるでせう。
しかし神様はさういふ人間を通して語らうとする可能性がないとは言へない。

いや、3Hしないといふのは、たとえ神様がその人を通して語つておられやうとおられまいと、
「神様は今この人を通して語つておられる」
と思ひなすことです。

それは私の自由だし、さういふ思ひ方が私にとつて益か不益かと考へれば、多分益だらうと思ふのです。
砂浜の砂の中からごくわずかな砂金を掬い上げるやうな、難儀ではありながらリターンの大きい作業です。

3Hをなくして人の話の背後に神様を感じるときに私にやつて来るものがあれば、それを
「閃き(天啓)」
と言つてもいいでせう。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



コメント






管理者にだけ表示を許可