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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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彼らの代わりに死んでいきます

20191012

イエス様は、ローマ兵が槍で自分の脇腹を突いても、
「彼らをおゆるしください」
と言いました。

「私が彼らの代わりに死んでいきます。彼らの代わりに犠牲になります」
といふ精神をもつて完全に忍耐するのです。

ここから、歴史上になかつた新しい世界が生まれるのです。
これがどれほど偉大なことかといふ事実を知らなければなりません。
新しい世界、神様が願ふ世界がそこからわき上がり始めるのです。

(『世界経典』706)


1人の人間が死ぬことで新しい世界がわき上がる。
これほど偉大な精神はないと、お父様は言はれるのです。

しかし、一体どうしてそんなことが起こるのでせうか。

イエス様が登場されるまで、人間の世界には
「歯には歯を、怨讐には怨讐を」
といふ教へしかなかつた。

だから人間の頭の中には、
「やられたらやり返す。先にやらないと、自分がやられる」
といふ考へと、その体験の記憶しかなかつた。

ところがイエス様が自らの完全自己否定の実践をもつて、それまでになかつた精神を体現して見せられたのです。

「怨讐には、愛を」

たつた一人の姿が、まづ誰かの心に焼き付く。
それはイエス様と数年間行動を共にした弟子たちだつたかも知れない。

弟子たちの中にイエス様の精神を真似る者が出てくれば、
「怨讐には、愛を」
といふ本性の生き方の記憶が繁殖する。

1人が犠牲になれば、この精神の記憶は新しい3人に繁殖する。
これが新しい世界を生み出していく力だと見ることができます。

ところでこの精神は私の生活の中に生きてゐるでせうか。
私もイエス様の精神を生きれば、(イエス様と次元は違つても)私なりの次元で新しい世界を生み出すことができる可能性がないでせうか。

私の周りにも、私を殺すほどではないにせよ、様々な次元の怨讐がゐます。

文字通り、私を理不尽に攻撃する人。
言葉で攻撃する人もゐれば、行動で攻撃する人もゐるでせう。

私と考への合はない人。
どうしても馬が合はないのに、一緒に仕事をしなければならない。

私の言ふことを聞いてくれない人。
このやうにしてほしいのに、頑固にもそれを受け入れてくれない。

さういふときに、
「私はその人の代はりに死んでいきます」
と言へれば、
「怨讐には、怨讐を」
といふ過去の堕落性の記憶を消し去り、
「怨讐には、愛を」
といふ新しい本性の記憶を刻むことができる。

相手を怨讐のやうに思ふとき、
「怨讐視する思ひは本当の私の思ひではありません」
と、自己牧会することです。

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