私の感情は神様につながる
教会では「自己否定」で、自分の感情を無視、或いは感情に蓋をするように言われます。「アベルに絶対従順」なので、意見や反論は禁止です。 一方、心理学では「自分の感情を受け止めなさい」「自分を愛しなさい」と言われます。 どちらが本当の生き方なのか? 答えが出てきません。 |
数日前にこのやうなコメントをいただき、づつと考へてゐます。
私の記事にいただいたコメントなので、私の問題になつたのです。
私も1970年代に教会に入信した古参の一人ですから、
「自己否定」
「カインはアベルに絶対服従」
といふやうな教会の空気はある程度体験してきました。
さういふ中で自分の感情を直視しなかつたといふこともあつたのかも知れない。
耐えきれずに去つて行つた人もゐるし、留まりながらも心にかなりの傷を抱へてゐる人も知つてゐます。
しかし今は随分時代も変はつて来たし、教会の空気も変はつて来ました。
それに伴つて我々の信仰観もより本来のものに近づいていくべきだと感じてゐます。
本来の信仰観とは、どんなものか。
「どちらが本当の生き方なのか?」
といふ問ひに対しては、どちらでもなく、
「良心の声を聞く生き方が最も正しい生き方だ」
と、今の私は考へます。
「あなたはその生き方ができてゐるのか?」
と問はれれば、
「努力してゐます。しかし努力すればするほど良心の声を無視してゐることが多い自分に気がついて愕然とします」
といふのが正直な答へです。
私の目下の努力は、自己牧会といふ方法です。
今の世の中では悩んだり精神的に混乱したりするとカウンセリングを頼ることがありますが、人のカウンセリングを受けるのではなく自分の良心のカウンセリングを受けようといふのが自己牧会だと言つていいでせう。
冒頭のコメントの内容に似た体験は私にもあるので、自分なりに自己牧会してみると、まづ過去の教会での体験を今の自分がどう感じてゐるかといふことを整理する必要を感じます。
辛い(と自分が感じる)体験を忘れられないと、
「そのせいで今の自分はこのやうに苦しんでゐる」
といふ自己認識が固定します。
それは
「自分はその境遇の被害者だ」
といふ自己認識です。
自分が被害者なら、必ず近くに加害者がゐるはずです。
その加害者が誰であるか、意識する場合もあれば、半ば無意識の場合もあるでせう。
いづれにせよ、自分が被害者である限りにおいて、自分は被害の苦痛から逃れられません。
苦しいのに、なぜ被害者であることをやめないのか。
むしろ、やめたくない、自分は被害者のままでゐたい、と(ほぼ無意識的に)思つてゐるのではないか。
私にはどうもさう思へるのです。
被害者でゐる限り、
「自分は悪くない。悪いのは加害者だ」
さう思つてゐられます。
しかし良心に聞くと、
「被害者をやめなさい。その記憶を感謝とともに手放しなさい」
とカウンセリングしてくれるやうな気がします。
「過去の体験が私をダメにしたと思はないでいい。反対に、その体験が何らかの訓練としてプラスになつてゐるとも無理に思はないでいい」
とも諭してくれます。
過去の体験にプラスもマイナスも自分なりの評価をつけなくていい。
ただそのまま感謝して手放す。
それが本当の解放ではないか。
さて、それなら
「自分の感情を受け止めなさい」
といふのはどうでせうか。
いいやうにも思へます。
恨みであれ痛みであれ悲しみであれ、あるいは喜びであれ、自分の感情をそのまま味はつてみることはとても重要なことだと思ひます。
感情に蓋をしないことです。
しかし、問題はその後でせう。
過去の体験への恨み、痛み、悲しみ……
さういふ感情をそのまま素直に受け止めて、それをどうしたらいいのか。
下手をすると、それも被害者意識になります。
「自分を愛しなさい」
ともいふのですが、それは換言すると、
「どんな自分の感情も、それを感謝に変へなさい」
といふことでせう。
感謝に変へたときにのみ、私の感情は神様につながります。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
真の主人とは 2009/10/31
-
「サタンを追い出す方法を教えよう」 2014/09/20
-
神の声はどこにあるか 2022/11/17
-
記憶が咎めるのです 2017/06/07
-
スポンサーサイト