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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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スタジアムの囚人

20190912 

夢の話です。

夢から覚めて、見た内容を覚醒意識で味はつてみながら、
「スタジアムの囚人」
といふタイトルをその夢に附しました。

「コロッセウムの殉教者」
と言つてもいいかも知れません。

キリスト教の初期、信仰者たちがローマのコロッセウムに引き出され、腹をすかせたライオンの餌食になる。
それを観客席に集まつた多くの群衆が固唾を飲んで見守る。

「あいつらは一体どんな罪があつて見せしめにされてゐるのか」
と群衆は思つてゐる。

信仰的な観点から見ればクリスチャンたちに罪はなかつたかも知れませんが、まるで重罪人のやうに引き出され、その罪の罰を受けるところを群衆の目に晒される。

私が見た夢は群衆の目に晒されるのはクリスチャンではなく、私自身なのです。
殉教者ではなく、囚人に近いやうです。

囚人の罪が大勢の人々の目に晒され、
「あいつは善人のやうな顔をしてゐたが、実はあゝいふ罪を隠し持つてゐたのか」
といふことが容赦なく明らかになるのです。

罪はなるべく人目につかないやうに隠しておきたいのですが、引き出されてはもう仕方がない。
もう、なるやうにしかならない。

ところが目が覚めてから考へてみるに、スタジアムの囚人は悪い事なのか。
これがむしろいいのではないかといふ気がしてきます。

自分の罪(あるいはもう少し柔らく「弱点」と言つてもいいのですが)が衆目に晒されるといふことは、自分の肚さえ決まればむしろさっぱりする。

「自分にはかういふ弱点がある、かういふ堕落性がある」
と自分の中で内面的に指摘しながら自力で克服しようと努力することも貴いでせう。

しかし引つ張り出された囚人には、もはやさういふ悠長なことは言つていられない。
自分に対する人々の評価は一遍に悪化し、激しい批判を受けるやうになるかも知れない。

しかし肚が決まれば、むしろそれをバネにして一気に償いの条件を大きく立て、より早く罪を清算し、弱点や堕落性を克服できる可能性があります。
これがあるいは、神様の好まれるやり方かも知れない。

昨今の世情を見ても、次々に「スタジアムの囚人」が生まれてゐます。

多くの「囚人」を見ると、引き出された当初は肚が決まつていないので、何とか誤魔化さうと嘘をつく。
それで何とかうやむやにして逃げ切る「囚人」もゐるが、次第につききれなくなると、そこでやつと罪を認めて
「ごめんなさい」
と謝罪する「囚人」もゐます。

かういふ場合一番良いのは、最初から肚を決めて
「私はかういふ人間です」
と衆目に自分のありのままを見せることではなからうか。

スタジアムに引き出されるのなら、抵抗しない。
それが良心が一番納得する方法で、結局は一番痛みも少ない。

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