才能がその姿を現すとき
「才能は、その人が自分の人生に責任を持つ準備ができたら、その姿を現す」 (『happy money』本田健) |
本田さんの娘がまだ幼い頃、夢を見たさうです。
夢の中では娘さんがティーンエージャーになつてゐる。
彼女が本田さんにかう聞いてきた。
「お父さんは、世界を変へるやうなことをどうしてやらうとしないの?」
夢の中で本田さんは正直にかう答へた。
「お父さんはね、ただの人なんだ。政治家でもなければ、大学教授でもない。この複雑な世界のことをよく知つてゐるわけでもない。世界を変へるなんて、とてもできないよ」
その答へを聞いた娘さんは、がつかりして目を伏せた。
そこで夢から覚め、本田さんはとても動揺し、恥ずかしい気持ちになつたのです。
そして、
「娘に誇れるやうな父親にならう」
と思つたら、才能が叫ぶ声が聞こえた。
「私はここにゐるよ!」
以来、本田さんはお金と幸福にまつわる本を書き始め、すでにその数は140冊、累計発行部数は700万部を超えるに至つてゐます。
本田さんの前に姿を現した才能は、作家としての才能にしても、ちょつと並みではない。
全ての人にこれと同等レベルの才能が姿を現すとは考へにくい。
もとより、すべての人に作家の才能があるわけでもなく、別の分野の才能にしても並みを大きく抜きん出る才能はやはりごく一部でせう。
だから冒頭の言葉で私が注目したいのは、
「才能が姿を現す」
といふ結果の部分ではなく、むしろ
「自分の人生に責任を持つ準備ができたら」
といふ前提の部分です。
「自分の人生に責任を持つ」
とはどういふ意味でせうか。
あるいは、
「自分の人生に責任を持つ」
だけでいいのでせうか。
結婚すれば、妻(夫)もゐるし子どももゐる。
せめてさういふ家族にも責任を持たないといけないでせう。
確かにそれなりの責任を持つべきでせうが、
「人生に責任を持つ」
といふとき、それはやはり「自分の人生」しかないやうに思ひます。
いくら近い家族だとは言つても、配偶者や子どもの「人生」にまでは責任を持てない。
聖書の冒頭、人類史の起源にまで戻つて考へると、最初のアダムとエバにも「自分の人生に責任を持つ」ことが求められてゐたと思はれます。
「取つて食べるなといふ戒めを責任を持つて守れ」
といふ神様からの求めがありました。
それはアダムにとつてはアダムの人生においての責任であり、エバにとつてはエバの人生においての責任でした。
その責任の本質は、「取つて食べない」ことではなく、無形の神様に似た実体の姿に個性完成することだつたと見ることができます。
「私の中には神様のどのやうな像(かたち)があるか」
といふことを発見し、それを実らせること。
それを必ずするといふ心の準備が出来たとき、私の才能(神様の像)が現れ始める。
この才能は必ず世界の幸福に寄与するものになるはずです。

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