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教育部長の講義日記

家庭連合の教育部長として、統一原理を講義し、思索する日々

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朝徹の境地

20190821 

南伯子葵(ナンパクシキ)が女偊(ジョウ)に尋ねた。
「あなたは随分高齢のやうだが、顔色はまるで子どものやうに若々しい。何か秘訣があるのですか」

女偊は答えた。
「それは私が道を聞くことができたお蔭よ」

「道というものは、学んで知ることができますか」

女偊は答えた。
「それは無理です。少なくともあなたはそれができる人ではない。あの卜梁倚(ボクリョウキ)という人物は聖人の素質を備へてはゐるのだけど … 」

「彼に道を伝へてやると、彼は3日目には天下の存在を忘れる境地に入ることができるやうになつた」

「さらに見守つてゐると、7日目にはものの存在を忘れることができるやうになつた」

「さらに見守つてゐると、9日目には自分が生きてゐることを忘れるやうになつた」

「生を忘れるやうになつてから、ついで朝徹(チョウテツ)の境地 --- 朝の大気のやうに澄み切つた境地に入るやうになり、朝徹についでは見独(ケンドク)の境地 --- おのれだけがあつて対立者のゐない境地に入るやうになつた」

「見独についでは古今の時間を超越する境地に達し、古今の時間を超えると、つひには不死不生の境地に入るやうになつた」

(『世界経典』468-9)


これは「荘子」の一節です。
女偊といふのは、道教の女性賢人です。

彼女は、道は学んで分かるものではないと言ふ。
そして道を尋ねる子葵を一目で見抜いて聖人の器ではないと言ふのです。

凡人には道を究められない。
ただ極く稀に、卜のやうな人物ならかなりの境地に到達できる。

卜が辿る境地の階段をみると、最初は
「忘れる」
といふ段階を3段踏みます。

そこからもう一段上がると、
「朝の大気のやうな澄み切つた境地」
に入る。

そこからさらに上がつて、
「自他の区別、対立のない境地」
に至り、最後は
「死も生もない境地」
に入る。

子葵同様、聖人ならざる私もただ
「そんな境地があるものなのか」
とぼんやり思ふだけです。

少し興味を惹かれるのは、最初の3段階がどれも「忘れる」といふ境地を進んでゐることです。
道が進むというのは、それまで自分が学んできたもの、知つてゐたもの、体験してきたものを一つ一つ忘れていくことのやうです。

忘れるといふのは、手放すといつてもいい。
それまで当たり前だと思つてゐた考へ方、感じ方を未練なく捨てていく。

手放して手放して、自分のものが極限までなくなると、朝の大気のやうな澄み切つた世界に入る。

面白いことに仏教も似たやうなことを言つているので、次は中国の禅僧の話を聞いてみませう。

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